【仏教用語/人物集 索引】

スッタニパータ【第4 八つの詩句の章】3、悪意についての八つの詩句

投稿日:0202年5月28日 更新日:

780 実に悪意をもって他人をそしる人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って他人をそしる人々もいる。そしる言葉が起こっても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとにも心のすさむことがない。

781 欲にひかれて、好みに捕らわれている人は、どうして自分の偏見を超えることが出来るだろうか。彼は、みずから完全であると思いなしている。彼は知るにまかせて語るであろう。

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、彼は「下劣な人」である。と真理に達した人々は語る。

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩の燃え盛ることがないのであるから、彼は高貴な人である、と真理に達した人々は語る。

784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分の内にのみ勝れた実りがあると見る人は、揺らぐものに頼る平安に執著しているのである。

785 諸々の事物に関する固執はこれこれのものであると確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの偏執の住居の内にあって、物事を斥け、またこれをとる。

786 邪悪をはらい除いた人は、世の中のどこにいても、様々な生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪をはらい除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして輪廻に赴くであろうか?彼はもはや頼り近づくものがないのである。

787 諸々の事物に関して頼り近づく人は、あれこれの議論(そしり、うわさ)を受ける。偏見や執著に頼り近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?彼は執することもなく、捨てることもない。彼はこの世にありながら一切の偏見をはらい去っているのである。

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※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

なお、底本としてパーリ語経典の『スッタニパータ』を使用していますが、学問的な正確性を追求する場合、参考文献である『「ブッダの言葉」中村元訳 岩波文庫』を読むようおすすめします。なお、章題/節題は比較しやすいよう同じにしました。

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