【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』化身土巻 - 本10

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 『末法燈明記』 最澄製作 を披閲するに曰わく、「夫れ、一如に範衛して、以て化を流す者は法王、四海に光宅して、以て風に乗ずる者は仁王なり。然れば則ち仁王・法王、互いに顕れて物を開し、真諦・俗諦、逓いに因りて教を弘む。所以に、玄籍、宇内に盈ち、嘉猶、天下に溢てり。爰に愚僧等、率して天網に容り、俯して厳科を仰ぐ。未だ寧処に遑あらず。然るに法に三時有り、人、亦三品なり。化制の旨、時に依りて興讃す。毀讃の文、人に遂いて取捨す。夫れ、三石の運、減衰、同じからず、後五の機、慧悟、又異なり。豈に一途に拠りて済わんや、一理に就いて整さんや。故に正・像・末の旨際を詳らかにして、試みに破持僧の事を彰さん。中に於いて三有り。初めには正・像・末を決す。次に破持僧の事を定む。後に教を挙げて比例す。

 初めに正・像・末を決するに、諸説を出だすこと同じからず。且く一説を述せん。

 大乗基(慈恩・弥勒上生経疏)に『賢劫経』を引きて言わく、「仏涅槃の後、正法五百年、像法一千年ならん。此の千五百年の後、釈迦の法、滅尽せん」と。末法を言わず。余の所説に准うるに、尼、八敬に順わずして懈怠なるが故に、法、更増せず。故に彼に依らず。

 又『涅槃経』に、「末法の中に於いて十二万の大菩薩衆有して、法を持ちて滅せず」と。此れは上位に拠るが故に亦同じからず。

 問う。若し爾らば千五百年の内の行事、云何ぞや。

 答う。『大術経』(摩訶摩耶経)に依るに、「仏涅槃の後の初めの五百年には、大迦葉等の七賢聖僧、次第に正法を持ちて滅せず。五百年の後、正法滅尽せんと。六百年に至りて後、九十五種の外道、競い起こらん。馬鳴、世に出で諸の外道を伏せん。七百年の中に、龍樹、世に出で邪見の幢を摧かん。八百年に於いて、比丘、縦逸にして、僅かに一二、道果を得るもの有らん。九百年に至りて、奴を比丘とし、婢を尼とせん。一千年の中に、不浄観を開かん。瞋恚して欲せじ。千一百年に、僧尼嫁娶せん。僧毘尼を毀謗せん。千二百年に、諸僧尼等、倶に子息有らん。千三百年に、袈裟変じて白からん。千四百年に、四部の弟子、皆、猟師の如し。三宝物を売らん。爰に曰わく、千五百年に、睒弥国に二の僧有りて、互いに是非を起こして遂に殺害せん。仍って、教法、龍宮に蔵まるなり。」

 『涅槃』の十八及び『仁王』等に、復た此の文有り。此れ等の経文に準うるに、千五百年の後、戒・定・慧有ること無きなり。

 故に『大集経』の五十一に言わく、「我が滅度の後、初めの五百年には、諸の比丘等、我が正法に於いて解脱堅固ならん 初めに聖果を得るを名づけて「解脱」とす。次の五百年には禅定堅固ならん。次の五百年には多聞堅固ならん。次の五百年には造寺堅固ならん。後の五百年には闘諍堅固ならん。白法隠没せん」と云云。

 此の意、初めの三分の五百年は、次いでの如く戒・定・慧の三法、堅固に住することを得ん。即ち上に引く所の正法五百年、像法一千の二時、是れなり。造寺已後は、並びに是れ末法なり。故に基(慈恩)、『般若会の釈』(金剛般若論会釈)に云わく、「正法五百年、像法一千年、此の千五百年の後の正法滅尽せん」と。故に知りぬ。已後は是れ末法に属す。

 問う。若し爾らば、今の世は正しく何れの時にか当たるや。

 答う。滅後の年代、多説有りと雖も、且く両説を挙ぐ。

 一には、法上師等、『周異』の説に依りて言わく、「仏、第五の主・穆王満五十一年壬申に当たりて入滅したまう」と。若し此の説に依らば、其の壬申より我が延暦二十年辛の巳に至るまで一千七百五十歳なりと。

 二には、費長房等、魯『春秋』に依らば、「仏、周の第二十の主・匡王班四年壬子に当たりて入滅したまう。」若し此の説に依らば、其の壬子より我が延暦二十年辛の巳に至るまで一千四百十歳なり。故に今の時の如きは是れ最末の時なり。彼の時の行事、既に末法に同ぜり。

 然れば則ち末法の中に於いては、但、言教のみ有りて行証無けん。若し我が法有らば破戒有るべし。既に戒法無し。何の戒を破せんに由りてか、破戒有らんや。破戒、尚無し。何に況んや持戒をや。故に『大集』に云わく、「仏涅槃の後、無戒、州に満たん」と云云。

 問う。諸経律の中に広く破戒を制して衆に入ることを聴さず。破戒、尚爾なり。何に況んや無戒をやと。而るに今重ねて末法を論ずるに戒無し。豈に瘡無くして自ら以て傷まんやと。

 答う。此の理、然らず。正・像・末法の所有の行事、広く諸経に載せたり。内外の道俗、誰か披諷せざらん。豈に自身の邪活を貪求して、持国の正法を隠蔽せんや。但し今論ずる所の末法には、唯、名字の比丘有らん。此の名字を世の真宝とせん。福田無からんや。設い末法の中に持戒有らば、既に是れ怪異なり。市に虎有らんが如し。此れ誰か信ずべきや。

 問う。正・像・末の事、已に衆経に見えたり。末法の名字を世の真宝とせんことは、聖典に出でたりや。

 答う。『大集』の第九に云わく、「譬えば真金を無価の宝とするが如し。若し真金無くは、銀を無価の宝とす。若し銀無くは、鍮石偽宝を無価とす。若し偽宝無くは、赤白銅鉄・白錫鉛を無価とす。是くの如き、一切世間の宝なれども、仏法無価なり。若し仏宝無さずは、縁覚無上なり。若し縁覚無くは、羅漢無上なり。若し羅漢無くは、余の賢聖衆、以て無上なり。若し余の賢聖衆無くは、得定の凡夫、以て無上とす。若し得定の凡夫無くは、浄持戒を、以て無上とす。若し浄持戒無くは、漏戒の比丘を、以て無上とす。若し漏戒無くは、剃除鬚髪して身に袈裟を著たる名字比丘を無上の宝と為す。余の九十五種の異道に比するに、最も第一と為す。世の供を受くべし。物の為の初めの福田なり。何を以ての故に。能身を破る衆生、怖畏する所なるが故に。護持し養育して是の人を安置すること有らんは、久しからずして忍地を得ん」と。已上経文

 此の文の中に八重の無価有り。謂わゆる、如来像、縁覚、声聞、及び前三果、得定の凡夫、持戒、破戒、無戒名字、其れ次いでの如し。名づけて「正・像・末の時の無価の宝」とするなり。初めの四は正法時、次の三は像法時、後の一は末法時なり。此れに由りて明らかに知りぬ、破戒、無戒、咸く是れ真宝なりと。

 問う。伏して前の文を観るに、破戒、名字、真宝ならざること莫し。何が故ぞ、『涅槃』と『大集経』に、「国王・大臣、破戒の僧を供すれば、国に三災起こり、遂に地獄に生ず」と。破戒、尚爾なり。何に況んや無戒をや。而爾るに如来、一つ破戒に於いて、或いは毀り、或いは讃む。豈に一聖の説に両判の失有るをや。

 答う。此の理、然らず。『涅槃』等の経に且く正法の破戒を制す。像・末代の比丘には非ず。其の名、同じと雖も、時に異有り。時に随いて制許す。是れ大聖の旨破なり。世尊に於いて両判の失無さず。

 問う。若し爾らば、何を以てか知らん、『涅槃』等の経は、但、正法所有の破戒を制止して、像・末の僧に非ずとは。

 答う。引く所の『大集』所説の八重の真宝の如し。是れ其の証なり。皆、時に当たりて無価と為す故に。但し正法の時の破戒比丘は清浄衆を穢す。故に仏、固く禁制して衆に入れず。

 然る所以は『涅槃』の第三に云わく、「如来、今、無上の正法を以て諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付嘱したまえり。乃至 破戒有りて、正法を毀らば、王及び大臣、四部の衆、当に苦治すべし。是くの如きの王臣等、無量の功徳を得ん。乃至 是れ我が弟子なり。真の声聞なり。福を得ること無量ならん。」乃至 是くの如きの制文の法、往往衆多なり。皆是れ正法に明かす所の制文なり。像・末の教に非ず。然る所以は、像季・末法には正法を行ぜざれば、法として毀るべき無し。何をか「毀法」と名づけん。戒として破すべき無し。誰をか「破戒」と名づけん。又其の時、大王、行として護るべき無し。何に由りてか三災を出だし、及び戒・慧を失せんや。又像・末には証果の人無し。如何ぞ二聖に聴護せらるることを明かさん。故に知りぬ。上の所説は皆、正法世に持戒有る時に約して破戒有るが故なり。

(化身土巻 - 本 は続く)

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