【仏教用語/人物集 索引】

弘法大師 空海上人(こうぼうだいしくうかいしょうにん)

投稿日:0835年3月21日 更新日:

 
空海は、宝亀5(774)年6月15日、讃岐国の屏風ガ浦(現在の四国香川県善通寺市)で誕生しました。父は、郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は、玉依御前(たまよりごぜん)の三男で、幼名を真魚(まお)といいました。

延暦7(788)年、平城京(古都。784年、長岡京に遷都)に出て、延暦8(789)年、母方の叔父さんである阿刀大足(あとのおおたり)について論語、孝経、史伝、文章などを学びました。延暦11(792)年、18歳で長岡京の大学寮に入り、明経道、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられます。

大学寮の勉強だけではもの足らず、大学寮を去って仏道修行を始めました。一説には奈良岩渕寺の勤操大徳(ごんそうだいとく)から「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を授かり、大峯山(おおみねさん)や阿波(徳島県)の大瀧ガ嶽(たいりゅうがだけ)、土佐(高知県)の室戸崎(むろとのさき)などの霊所で修行を続けられました。大和久米寺で『大日経』を手にしたことと、延暦22(803)年の遣唐使船が出港後ほどなくして遭難し翌年も遣唐使が派遣されることを知り、唐の国に留学する決心をしたと伝えられています。

諸説あり謎も多いのですが、延暦23(804)年、31歳の時、それまで私度僧であったのを東大寺戒壇院(かいだんいん)で具足戒を受け公式に僧となり、この頃、名を空海とあらためたといわれています。同年7月6日、留学僧として遣唐使の一行と共に、肥前(長崎県)松浦郡田浦(たのうら)から唐へ出港します。遣唐使船4艘のうち2艘は沈没あるいは航行不能に陥ってしまいますが、天台宗を開いた最澄も、このときのもう1艘に乗って唐に渡りました。

永貞元(延暦24、805)年2月、長安の西明寺に滞在し、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵に学び、梵語の経本や新訳経典を与えられる。5月より、正統の真言密教を継がれた第七祖である青龍寺東塔院(しょうりゅうじとうとういん)の恵果和尚(けいかかしょう)を訪れ、6月に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂、8月に伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられ、真言密教の第八祖となりました。

同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂し、元和元(延暦25、806)年1月17日、弟子を代表して碑文を撰しました。3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在し、土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集しました。8月に明州を出航して、大同元(806)年10月、九州博多に到着し、集めてきた経論の整理をされ、帰朝上表(きちょうじょうひょう)を朝廷に奉進(ほうしん)しました。大同2(807)年、朝命によって筑紫の観世音寺に住み、大同4(809)年、上京の勅宣(ちょくせん)により和気氏の私寺であった京都高雄山寺(たかおさんじ、後の神護寺))に入りました。弘仁元(810)年、嵯峨天皇に書を奉り、「真言宗」という宗旨を開く許しを得ました。

弘仁3(812)年11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇し、12月14日には胎蔵灌頂を開壇しました。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼりました。弘仁7(816)年には嵯峨天皇より高野山を賜わり入住する事になり修法や著述などをして過ごされました。弘仁14(823)年1月、太政官符により東寺を賜わり、真言密教の道場としました。

天長5(828)年、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受け、一般の人たちが誰でも勉強できるように私立の教育施設「綜芸種智院」を開設しました。天長9(832)年8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修しました。承和2(835)年3月21日に62歳で高野山において入定(にゅうじょう)されました。それから87年後の延喜21(921)年、醍醐天皇から弘法大師の諡号(しごう)を賜わります。

生誕 宝亀5(774)年6月15日

命日 承和2(835)年3月21日

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