【仏教用語/人物集 索引】

『伝光録』第五十一祖。永平元和尚。

投稿日:2004年1月12日 更新日:

【本則】

第五十一祖。永平元和尚。参天童浄和尚。浄一日後夜坐禅示衆曰。参禅者身心脱落也。師聞忽然大悟。直上方丈焼香。浄問曰。焼香事作麼生。師曰。身心脱落来。浄曰。身心脱落。脱落身心。師曰。這箇是暫時伎倆。和尚莫乱印某甲。浄曰。我乱不印汝。師曰。如何是乱不印底。浄曰。脱落身心。師礼拝。浄曰。脱落脱落。時福州広平侍者曰。外国人得恁麼地。実非細事。浄曰。此中幾喫拳頭。脱落雍容又霹靂。

【機縁】

師諱道元。俗姓源氏。村上天皇九代苗裔。後中書王八世之遺胤也。正治二年初て生る時に。相師見奉て曰。此子聖子也。眼に重瞳あり。必ず大器ならん。古書に曰。人聖子を生ずる時は。其母命あやうし。この兒七歳の時。必ず母死せん。母儀是を聞て驚疑せず。怖畏せず。増愛敬を加ふ。果して師八歳の時。母儀即ち死す。人悉く道ふ。一年違ひ有と雖とも。果して相師の言に合すと。即ち四歳の冬。初て李嶠が百詠を祖母の膝上に読み。七歳の秋。始て周詩一篇を慈父の閣下に獻ず。時に古老名儒悉く道く。此の兒凡流に非ず。神童と称すべしと。八歳の時。悲母の喪に逢て哀歎尤も深し。即ち高雄寺にて香煙の上るを見て。生滅無常を悟り。其より発心す。九歳の春。始て世親の倶舍論をよむ。耆年宿徳云。利如文殊。真の大乗の機なりと。師幼稚にして耳の底に是等の言をたくはへて苦学を作す。時に松殿の禅定閤は関白攝家職の者也。天下に並なし。王臣の師範也。此人師を納て猶子とす。家の秘訣を授け。国の要事を教ゆ。十三歳の春。即ち元服せしめて。朝家の要臣となさんとす。師独り人にしられずして。竊に木幡山の荘を出て。叡山の麓に尋ね到る。時に良観法眼と云あり。山門の上綱顯密の先達也。即ち師の外舅也。彼の室に到て出家を求む。法眼大に驚て問て曰。元服の期ちかし。親父猶父定て瞋り有んか如何。時に師曰。悲母逝去の時属して曰。汝ぢ出家学道せよと。我も又如是思ふ。徒に塵俗に交らんとおもはず。但出家せんと願ふ。悲母及ひ祖母姨母等の恩を報ぜんが為に出家せんと思ふと。法眼感涙を流して許入室。即留学横川首楞厳院般若谷千光房。卒に十四歳。建保元年四月九日。座主公円僧正を礼して剃髮す。同十日延暦寺の戒檀院にして菩薩戒をうけ比丘となる。然しより山家の止観を学し。南天の秘教をならふ。十八歳より内に一切経を披閲すること一遍。後に参井の公胤僧正同く又外叔なり。時の明匠世にならびなし。因て宗の大事をたづぬ。公胤僧正示曰。吾宗の至極いま汝が疑処なり。傅教・慈覚より累代口訣し来るところなり。この疑をしてはらさしむべきにあらず。遙かに聞く。西天達磨大師。東土に来てまさに仏印を伝持せしむと。その宗風いま天下にしく。名けて禅宗といふ。もしこの事を決擇せんとおもはば。汝建仁寺榮西僧正の室に入て。その故実をたづね。はるかに道を異朝に訪ふべしと。因て十八歳の秋。建保五年丁丑八月二十五日に。建仁寺明全和尚の会に投して。僧儀をそなふ。彼の建仁寺僧正の時は。もろもろの唱導。はじめて参ぜしには。三年をへて後に衣をかへしむ。然るに師のいりしには。九月に衣をかへしめ。すなはち十一月に僧伽梨衣をさづけて。以て器なりとす。かの明全和尚は顯密心の三宗をつたへて。ひとり榮西の嫡嗣たり。西和尚建仁寺の記を録するに曰。法蔵はただ明全のみに属す。榮西が法をとふらはんとおもふともがらは。すべからく全師をとふろうべし。師其室に参じ。重て菩薩戒をうけ。衣鉢等をつたへ。かねて谷流の秘法。一百三十四尊の行法。護摩等をうけ。ならびに律蔵をならひ。また止観を学す。はじめて臨濟の宗風をききて。おほよそ顯密心三宗の正脈みなもて伝受し。ひとり明全の嫡嗣たり。やや七歳をへて。二十四歳の春。貞応二年二月二十二日。建仁寺の祖塔を礼辞して。宋朝におもむき。天童に掛錫す。大宋嘉定十六年癸未の暦なり。在宋の間だ諸師をとふらひし中に。はじめ径山琰和尚にまみゆ。琰問云。幾時到此間。師答曰。客歳四月。琰曰。随群恁麼来。師曰。不随群。恁麼来時作麼生。琰曰。也是随群恁麼来。師曰。既是随群恁麼来。作麼生是。琰一掌曰。者多口阿師。師曰。多口阿師即不無。作麼生是。琰曰。且坐喫茶。又造台州小翠巌。見卓和尚。便問。如何是仏。卓曰。殿裏底。師曰。既是殿裏底。為什麼周遍恒沙界。卓曰。遍沙界師曰。話墮也。かくの如く諸師と問答往来して。大我慢を生じて日本大宋にわれにおよぶ者なしとおもひ。帰朝せんとせし時に。老璡と云ふものあり。すすめて曰。太宋国中ひとり道眼を具するは浄老なり。汝まみゑば必ず得処あらん。かくのごとくいへども。一歳余をふるまで。参ぜんとするにいとまなし。時に派無際去て後ち。浄慈浄和尚天童に主となり来る。即ち有縁宿契なりとおもひ。参じてうたがひをたづね。最初にほこさきをおる。因て師資の儀とす。委悉に参ぜんとして。即ち状を奉るに曰。某甲幼年より菩提心を発。本国にして道を諸師にとふらひて。いささか因果の所由をしるといへども。いまだ仏法の実帰をしらず。名相の懷標にとどこふる。後ちに千光禅師の室にいりて。初めて臨濟の宗風をきく。今全法師にしたがひて大宋にいり。和尚の法席に投ずることをゑたり。これ宿福の慶幸なり。和尚大悲。外国遠方の小人。願は時候に不拘。威儀不威儀を擇らばず。頻頻に方丈に上り。法要を拝問せんとおもふ。大慈大悲哀愍聴許したまへ。時に浄和尚示曰。元子いまより後ちは著衣衩衣をいはず。昼夜参問すべし。われ父子の無礼を恕するが如し。然しより昼夜堂奧に参じ。親く真訣を受く。ある時師を侍者に請せらるるに。師辞して曰。われは外国の人なり。かたじけなく大国大刹の侍司たらんこと。すこぶる叢林の疑難あらんか。ただ昼夜に参ぜんとおもふのみなり。時に和尚いはく。実に汝がいふところもつとも謙卑なり。そのいひなきにあらず。因て只問答往来して。提訓をうくるのみなり。然るに一日後夜の坐禅に。浄和尚入堂。大衆のねむりをいましむるに曰。参禅心身脱落也。不要焼香礼拝念仏修懺看経。祇管打坐始得と。時に師きひて忽然として大悟す。今の因縁なり。おほよそ浄和尚にまみへてより。昼夜に弁道して。時しばらくもすてず。ゆゑに脇席にいたらず。浄和尚よのつね。示曰。汝古仏の操行あり。必ず祖道を弘通すべし。われ汝ぢをゑたるは。釈尊の迦葉をゑたるがごとし。因て宝慶元年乙酉。日本嘉祿元年。たちまちに五十一世の祖位に列す。即ち浄和尚属して曰。早く本国にかゑり。祖道を弘通すべし。深山に隠居して。聖胎を長養すべしと。しかのみならず。太宋にて五家の嗣書を拝す。いはゆる最初広福寺前住惟一西堂といふにまみゆ。西堂曰。古蹟の可観は人間の珍玩なり。汝ぢいくばくか見来せる。師曰。未会見。ときに西堂曰。吾那裏に一軸の古蹟あり。老兄が為にみせしめんといひて。携来るをみれば。法眼下の嗣書なり。西堂曰。ある老宿の衣鉢の中より得来れり。惟一西堂のにはあらず。そのかきようありといへども。くわしく挙するにいとまあらず。又宗月長老は天童の首座たりしに。ついて雲門下の嗣書を拝す。即ち宗月に問て曰。今五家の宗派をつらぬるに。いささか同異あり。そのこころいかん。西天東土嫡嫡相承せば。なんぞ同異あらんや。月曰。たとひ同異はるかなりとも。ただまさに雲門山の仏法は。如是くなりと学すべし。釈迦老子なにによりてか尊重他なる。悟道によりて尊重なり。雲門大師なにによりて尊重他なる。悟道によりて尊重なり。師この語をきくに。いささか領覽あり。又龍門の仏眼禅師。清遠和尚の遠孫にて。伝蔵主といふ人ありき。彼の伝蔵主また嗣書を帯せり。嘉定のはじめに。日本の僧隆禅上座。かの伝蔵主やまひしけるに。隆禅ねんごろに看病しける勤労を謝せんが為に。嗣書をとりいだして礼拝せしめけり。みがたきものなり。汝ぢが為に礼拝せしむといひけり。それより半年をへて。嘉定十六年癸未の秋のころ。師天童山に寓止するに。隆禅上座ねんごろに伝蔵主に請して師にみせしむ。これは楊岐下の嗣書なり。又嘉定十七年甲申正月二十一日に。天童無際禅師了派和尚の嗣書を拝す。無際曰。この一段の事少得見知。如今老兄知得。便是学道之実帰也。時に師喜感無勝。又宝慶年中。師台山雁山等に雲遊せし序に。平田の万年寺にいたる。時の住持は福州の元鼐和尚なり。人事の次てに。むかしよりの仏祖の家風を往来せしむるに。大潙仰山の令嗣話を挙するに。元鼐曰く。会看我箇裏嗣書也否。師曰く。いかにしてみることをゑん。鼐自らたちて嗣書をささげて曰。這箇はたとひ親き人なりといへども。たとひ侍僧のとしをへたるといへども。これをみせしめず。これ即ち仏祖の法訓なり。しかあれども。元鼐ひごろ出城し。見知府の為に在城の時。一夢を感ずるに曰。大梅山法常禅師とおぼしき高僧あり。梅華一枝をさしあげて曰。もしすでに船舷をこゆる実人あらんには。華をおしむこと勿れといひて。梅華をわれにあたふ。元鼐おぼゑずして。夢中に吟じて曰。未跨船舷好与三十棒。しかあるに不経五日与老兄相見。いはんやすでに船舷に跨り来る。この嗣書また梅華綾にかけり。大梅のおしふるところならん。夢中と符合するゆへにとりいだすなり。老兄もしわれに嗣法せんともとむや。たとひもとむともおしむべきにあらず。師信感おくところなし。嗣書を請すべしといふとも。ただ焼香礼拝して。恭敬供養するのみなり。時に焼香侍者法寧といふあり。はじめて嗣書をみるといひき。時に師ひそかに思惟しき。この一段の事。実に仏祖の冥資にあらざれば見聞なをかたし。辺地の愚人として。なんのさいはひありてか。数番これをみる。感涙霑袖。この故に。師遊山の序に。大梅山護聖寺の旦過に宿するに。大梅祖師来りて。開華せる一枝の梅華をさづくる霊夢を感ず。師実に古聖とひとしく道眼をひらく故に。数軸の嗣書を拝し。冥応のつげあり。如是諸師の聴許をかふむり。天童の印証を得て。一生の大事を弁し。累祖の法訓をうけて。大宋宝慶三年。日本安貞元年丁亥歳帰朝し。はじめに本師の遺跡。建仁寺にをちつき。しばらく修練す。時に二十八歳なり。其後勝景の地をもとめ。隠栖をとするに。遠国畿内有縁檀那の施す地を歴観すること一十三箇処。皆意にかなはず。しばらく洛陽宇治郡深草の里。極楽寺の辺に居す。即ち三十四歳なり。宗風漸くあをぎ。雲水あひあつまる。因て半百にすぎたり。十歳を経て後越州に下る。志比の荘の中。深山をひらき。荊棘を払ふて。茅茨をふき。土木をひきて。祖道を開演す。いまの永平寺これなり。興聖に住せし時。神明来て聴戒し。布薩ごとに参見す。永平寺にして。龍神来て八齋戒を請し。日日回向に預んと願ひ出見ゆ。これによりて日日に八齋戒をかき回向せらる。いまにいたるまでおこたることなし。

【拈提】

夫れ日本仏法流布せしより七百余歳に。はじめて師正法をおこす。いはゆる仏滅後一千五百年。欽明天皇一十三壬申歳。はじめて新羅国より仏像等わたり。十四歳癸酉に。すなはち仏一像二軸をいれて渡す。然しより漸く仏法の霊験あらはれて後。十一年といひしに。聖徳太子仏舍利をにぎりてうまる。用明天皇三年なり。法華勝鬘等の経を講ぜしよりこのかた。名相教文天下に布く。橘の太后所請として。唐の齊安国師下の人。南都に来りしかども。その碑文のみ殘りありて。兒孫相嗣せざれば。風規つたはらず。後覚阿上人瞎堂は。仏眼遠禅師の真子として。帰朝せしかども。宗風おこらず。又東林惠敞和尚の宗風。榮西僧正相嗣して。黄龍八世として宗風を興さんとして。興禅護国論等をつくりて。奏聞せしかども。南都北京よりささへられて。純一ならず。顯密心の三宗をおく。然るに師その嫡孫として。臨濟の風氣に通徹すといへども。なを浄和尚をとふらひて。一生の事を弁し。本国にかへり正法を弘通す。実にこれ国の運なり。人のさひはいなり。あだかも西天二十八祖。達磨大師はじめて唐土にいるがごとし。これ唐土の初祖とす。師またかくのごとし。大宋国五十一祖なりといへども。今は日本の元祖なり。ゆへに師はこの門下の初祖と称したてまつる。そもそも正師大宋にみち。宗風天下にあまねくとも。師もし真師にあふて参徹せずんば。今日いかんが祖師の正法眼蔵を開明することあらん。時澆運にむかひ。世の末法にあふて。大宋も仏法すでに衰微して。明眼の知識まれなり。ゆへに派無際琰浙翁等。みな甲刹の主となるといへども。なほいたらざるところあり。ゆへに大宋にも人なしとおもふて。帰朝せんとせしところに。浄和尚ひとり洞山の十二世として。祖師の正脈を伝持せしに。なを神秘してもて嗣承をあらはさずと雖とも。師にはかくすところなく。親訣をのこさず。祖風を伝通す。実にこれ奇絶なり。殊特なり。しかもさいはひにかの門派として。かたじけなく祖風をとふらはん。あだかも震旦の三祖四祖に相見せんがごとし。宗風未落地。三国にあとありといへども。その伝通するところ。毫末もいまだあらたまらず。参徹するむね。あに他事あらんや。先須明心。いはゆる師最初得道の因縁。参禅者身心脱落也。実にそれ参禅は身をすて心をはなるべし。もしいまだ身心を脱せずんば。即ちこれ道にあらず。まさにおもへり。身はこれ皮肉骨髄と。子細に見得せし時。一毫末もゑ来る一氣なし。今おもふところの心といふはあり。一つには思量分別。この了別識を心とおもゑり。二つには寂湛として不動。一知なく半解なし。この心すなはちこれ精明湛然なるを心とおもへり。しらずこれはこれ識根未だまぬかれざることを。古人これをよんで精明湛不搖のところとす。汝等ここにとヾまりて。心なりとおもふこと勿れ。子細に見得する時。心といひ意といひ識といふ。三種の差別あり。それ識といふは。いまの憎愛是非の心なり。意といふは。いま冷暖をしり痛痒をおぼゆるなり。心といふは。是非をわきまへず。痛痒をおぼへず。墻壁のごとく。木石のごとし。よく実に寂寂なりとおもふ。この心耳目なきがごとし。ゆへに心によりていふ時。あたかも木人のごとく鉄漢の如し。眼こあれどもみず。耳あれどもきかず。ここにいたりて言慮の通ずべきなし。かくのごとくなるは即ちこれ心なりといへども。これはこれ冷暖をしり。痛痒をおぼゆる種子なり。意識ここより建立す。これを本心とおもふこと勿れ。学道は心意識をはなるべしといふ。これ身心とおもふべきにあらず。更に一段の霊光歴劫長堅なるあり。子細に熟看して。必ずやいたるべし。もしこの心をあきらめゑば。身心の得来るなく。敢て物我の携来るなし。故にいふ。身心もぬけおつと。ここにいたりて熟見するに。千眼を回しみるとも。微塵の皮肉骨髄と称すべきなく。心意識とわくべきなし。いかんが冷暖をしり。いかんが痛痒をわきまへん。なにをか是非し。なにをか憎愛せん。ゆへにいふ。みるに一物なしと。このところに承当せし。すなはち曰。身心脱落し来ると。すなはち印して曰。身心脱落。脱落身心卒に曰。脱落脱落と。一度この田地にいたりて。無底の籃子のごとく。穿心の椀子に似て。もれどももれどもつきず。いれどもいれどもみたざることを得べし。この時節にいたるとき。桶底を脱し去るといふ。もし一毫も悟処あり得処ありと思はば。道にあらず。ただ弄精魂の活計ならん諸人者子細に承当し。委悉に参徹して。皮肉骨髄を帯せざる身あることをしるべし。この身卒に脱せんとすれども脱不得なり。すてんとすれども捨不得なり。ゆへにこのところをいふに。一切みなつきて空不得のところありと。もし子細にあきらめゑば。天下の老和尚。三世の諸仏の舌頭をうたがはじ。いかならんかこの道理。要すや聞んと麼.

【頒古】

明皎皓地無中表。豈有身心可脱来。

▶ 次に進む(永平奘和尚)

◀ 前に戻る(天童浄和尚)

🏠 『伝光録』の最初に戻る

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

あなたに おすすめページ💡 戒名授与 1万円のみ(故人/生前/法名授与も)

<< 戻る

-仏教を本気で学ぶ
-, ,



Copyright © 1993 - 2024 寺院センター All Rights Reserved.