【仏教用語/人物集 索引】

『伝光録』第四十三祖。大陽明安大師。

投稿日:2004年1月12日 更新日:

【本則】

第四十三祖。大陽明安大師。因問梁山和尚。如何是無相道場。山指観音像曰。這箇是呉処士畫。師擬進語。山急索曰。這箇是有相底。那箇是無相底。師於言下有省。

【機縁】

師諱警玄。載伝灯等処。依時皇帝御名警延。然実諱是警玄也。江夏張氏子。依智通禅師出家。十九為大僧。聴円覚了義。講席無能及者。遂遊方初到梁山問。如何是無相道場乃至師遂有省。便礼拝。倚本位立。山曰。何不道取一句。師曰。道即不辞。恐上紙筆。山笑曰。此語上碑去在。師獻偈曰。我昔初機迷学道。万水千山覓見知。明今弁古終難会。直説無心転更疑。蒙師点出秦時鏡。照見父母未生時。如今学了何所得。夜放烏鶏帯雪飛。山謂。洞山之宗可倚。一時声價籍籍。山沒辞塔至大陽。謁堅禅師。堅譲席使主之。それより洞山一宗盛に興世。人悉く走風。師神観奇偉。有威重。従兒稚時日祇一食。自以先徳附授之重。足不越限。脇不至席。至年八十二猶如是。終に陞座辞衆終焉。

【拈提】

実にそれ参学もとも切要とすべきは。すなはちこれ無相道場なり。かたちをおびず名をうけず。故に言にあづからずといへども。必ず果然としてあきらかなるところあり。いはゆる父母未生の時の形貎なり。ゆへにこの田地をしめさんとするに。呉処士がゑがくところの観音の像をさす。あだかも鏡をしめすがごとし。いはゆる眼あれどもみず。耳あれどもきかず。手あれどもとらず。心あれどもはからず。鼻あれどもかがず。舌あれどもあじはひず。足あれどもふまず。六根悉く用なきがごとく。全体すべて閑家具なり。あだかも木人のごとく鉄漢のごとし。この時見色聞声はやくまぬかれおはりぬ。ここに進語せんとせしに。木橛にとどまらざらしめんとして。急索曰。這箇是有相底。那箇是無相底と。この不用底をもて無面目をしらしむ。明鏡をみておのれをしるがごとし。むかし秦時に鏡ありき。彼の鏡にむかへば。身中の五臟六腑。八万四千の毛孔。三百六十の骨頭。みなことごとくみるがごとし。耳目あれども用ひざるところに。身心を帯せざるところを看見す。有相の千山万水。悉くやぶれ来るのみにあらず。無心無分別の暗昏。すみやかにやぶれ。天地ともわかれず。万像すべてきざさず。了然として円具す。実にこれ洞上の一宗。一時の声價如是なるのみにあらず。累祖見得するみなもてかくのごとし。この旨を会せしよりのち。大陽にして有僧。問曰。如何是和尚家風。師曰。満瓶傾不出。大地沒饑人。実にこれこの田地。傾とも不出。おせども不闡。挑れども不起。触ども跡なし。故に耳目の至る処にあらず。語黙動静にともなひ来れども。かつて動静にさへられず。この事たヾ祖師独り具足するのみにあらず。尽大地の人一箇も具せざるなし。ゆへにいふ。うゑたるなしと。然れば諸禅徳幸ひに洞家の兒孫となりて。すでに古仏の家風にあへり。精細綿密に参到して。父母未生。色空未起の時の自己に承当して。已に一毫ばかりも相状なきところにいたりて。すでに微塵ばかりも外物なきところを見得して。千生万劫。摸すれども四大五蘊得不来。十二時中一時も缺少なきところをあきらめゑば。まさにこれ洞家の兒孫。青原の枝派ならん。且くいかんが此の這箇の道理を通ずることをゑん。要聞麼。

【頒古】

円鑑高懸明映徹。丹艧尽美畫不成。

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