【本則】
第七祖。婆須密多尊者。置酒器於弥遮迦尊者前。作礼而立。尊者問曰。為是我器。為是汝器。師思惟。尊者曰。為是我器者。汝之本有性。若復汝器。我法汝当受。師聞大悟無生本性。
【機縁】
師者北印土之人也。姓頗羅墮。常服浄衣。手持酒器。遊行閭里。或吟或嘯。人謂之狂。不顯姓名。然弥遮迦尊者。遊化至北天竺国。見雉堞之上。有金色祥雲起。尊者謂徒衆曰。是道人氣也。是必有大士。為吾法嗣。言未了。師即到乃問曰。識我手中物否。尊者曰。是器而負浄者。師乃置酒器於弥遮迦尊者前乃至大悟無生本性。時酒器忽然不見。尊者謂曰。汝試自称名氏。吾当後示本因。師説偈而答。我従無量劫。至于生此国。本性頗羅墮。名字婆須密。時尊者示曰。我師提多迦説。世尊昔遊北印度。語阿難言。此国中吾滅後三百年有一聖人。姓頗羅墮。名婆須密。而於禅祖当獲第七。世尊記汝。汝応出家。師聞曰。我思往劫。嘗作檀那獻如来一宝座。彼仏記我曰。汝於賢劫釈迦牟尼仏法中。可続聖位。これによりて卒に第七の祖につらなる。
【拈提】
師いまだ尊者のところに至らざるとき。十二時中酒器を持してすつることなし。実にこれ表準なり。この器あしたにも要し。くれにも要し。受用無礙なり。実にこれその器たることを表す。これによりて参学の最初に問て云。識我手中物否と。たとひ心これ道と会し。身是仏なりとあきらむるとも。なをこれ触器なるゆへに。もし触器ならば。かならず浄者にはまくべし。古今に亙るとも会せよ。本来具足とも知れ。皆是触器也。何の古とか説ん。何の今とか説ん。なにを始といひ。なにを末と云ん。如是の所見必ず浄者には負べし。理の最たるを聆て。師即酒器をさしをく。是即ち尊者に帰せし表準なり。是故に為是我器為是汝器と問しなり。已に古今の論にあらず。去来の見をも離。この時に到りてこれ我なりとやせん。これ汝なりとやせん。これ我にもあらず。これ汝にもあらずと。思惟せしところに。即ち示曰。為我器者。汝之本有性。然ればこれ弥遮迦の器にもあらず。若復汝器我法汝受べし。故に婆須密の器にもあらず。我与汝との器にもあらず。ゆへに器また器にあらず。ゆへに器即ちかくれぬ。実に一段始終の因縁。今人のよくしるべきところにあらず。たとひ参じ来り参じ去て。諸仏諸祖師尽力不到のところにいたるといへども。これ触器なるべし。かならず浄者にはまくべし。夫れ真箇の浄者は。浄もまた不立。ゆへに器また不立。ゆへに師資の道相契。通途無礙なるゆへに。我が法汝受べし。汝之本有性なるゆへに。一法の他にうくるなく。一法の人にさづくるなし。恁麼に参徹するとき。師ともいふべし。資ともいふべし。ゆへに子即ち師の頂にのぼり。師即ち子の足にくだる。この時両物なく分析なし。ゆへに器とも称しがたし。すなはち器かくれし。この道のまさに通ぜん表準なり。今日ももしこの田地にいたりゑば。従来の身心にあらず。ゆへに古今に亙るともいひがたし。なにいはんや。生死去来と称するあらんや。皮肉骨髄を存することあらんや。実にこれ虚凝一片の田地。つゐに表裏なく。内外なし。今日又卑語をつけて。適来の因縁を挙せんとおもふ。大衆要聞麼。
【拈提】
霜曉鐘如随扣響。斯中元不要空盞。
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