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芙蓉道楷(ふようどうかい)

中国・宋時代の禅僧。投子義青に就いて嗣法。弟子には丹霞子淳がいる。・「芙蓉山の楷祖、もはら行持見成の本源なり。国主より定照禅師号ならびに紫袍をたまふに、祖、うけず、修表具辞す。国主とがめあれども、師、つひに不受なり。」(「正法眼蔵」行持 下)生誕 1043年命日 1118年<< 戻る
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丹霞子淳(たんかしじゅん)

中国・宋時代の禅僧。芙蓉道楷に就いて嗣法。弟子には長蘆清了、宏智正覚がいる。生誕 1064年命日 1117年<< 戻る
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投子義青(とうしぎせい)

宋時代の禅僧。浮山法遠の下で学び、代付により大陽警玄の法を受け嗣ぐ(嗣法)。大陽警玄とは直接会っていない。弟子には芙蓉道楷がいる。生誕 1032年命日 1083年<< 戻る
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藤原頼通(ふじわらのよりみち)

平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条...
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浮山法遠(ふさんほうおん)

中国・宋時代の禅僧。葉県帰省に就いて嗣法。その後、大陽警玄の下で修業を続け、ここでもその力量を認められらがらも、既に嗣法していたため、嗣ぐに相応しい弟子のいない大陽警玄の法を預かり、その後、投子義青に代付した。「法遠不去」(法遠去らず)ある時、浮山法遠は葉県帰省禅師の下で修行をしたいと、天衣義懐と共に入門を願い出ますが許されることなく何日も過ぎていきました。雪の舞うある日、ようやく葉県禅師が現れたのですが、入門を願って集まっていた者たちに水を浴びせる始末です。それにたまりかねて、皆去ってしまいましたが、浮山法遠は天衣義懐と共に諦めません。葉県禅師「まだ去らないなら打つぞ」浮山法遠「禅を求めて禅...
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保寧仁勇(ほねいじんゆう)

中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧。楊岐方会禅師に就いて嗣法。弟子には寿圣智渊、寿圣楚文、宝积宗映、景福日余など多数。保寧の勇禅師。・「保寧仁勇禅師頌曰、我仏親見賓頭盧、眉長髪短雙眉麁。阿育王猶狐疑、唵摩尼悉哩蘇嚧。(我仏親り賓頭盧を見る、眉長く髪短く雙眉麁なり。阿育王なほ狐疑す、唵摩尼悉哩蘇嚧。)この頌は、十成の道にあらざれども、趣向の参学なるがゆゑに拈来するなり。」(「正法眼蔵」見仏)・「保寧の勇禅師曰く、「眼睛なる常住物を護惜せよ」と。 之を敬重すること御饌草料の如くせよ。」(『典座教訓』2、心が整えば味も整う)生誕 命日 << 戻る
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葉県帰省(せっけんきせい)

中国・宋時代の禅僧。首山省念に就いて嗣法。弟子には浮山法遠がいる。葉県禅師の禅風を「厳冷枯淡」(げんれいこたん)と表します。生誕 命日 << 戻る
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楊岐方会(ようぎほうえ)

中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧。石霜楚円禅師に就いて嗣法。弟子には白雲守端、茶陵郁山主、石霜守孫、長慶顕瓊、君山守巽、法輪惟一、欽山智因、保寧仁勇など多数。語録に『楊岐會和尚語録』、『楊岐會和尚後録』、『楊岐會和尚語要』。筠州の古刹である九峰寺で出家得度し、諸国行脚の後、石霜楚円の門下となり、潭州瀏陽道吾山、瀏陽石霜山へと移り大悟する。筠州の九峰寺に戻った後、請われて袁州楊岐山の普明院の住持となります。楊岐派の祖として知られ、日本に伝えられた臨済禅のうち、黄龍派の禅を伝えた栄西禅師以外の全てがこの楊岐派に属することは特筆すべきことでしょう。・「楊岐山の会禅師、住持の時、寺院旧損してわづらい有りし...
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仁海(にんがい)

平安時代中期の真言宗の僧。父は宮道惟平。和泉国の出身。小野僧正・雨僧正・雨海僧正とも称される。真言宗小野流の祖。7歳から高野山で雅真に師事し、のちに元杲 (げんごう) から伝法灌頂を受けた。小野に曼荼羅寺を開いて修法し、弟子も多く盛んであった。治安3 (1023) 年東寺の二の長者、長元2 (29) 年東大寺別当、長暦2 (38) 年僧正に任命された。生誕 天暦5年(951年)命日 永承元年5月16日(1046年6月22日)<< 戻る
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石門慧徹(せきもんえてつ)

中国・五代十国時代~宋時代の禅僧。梁山縁観に就いて嗣法。生誕 943年命日 1027年<< 戻る
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藤原道長(ふじわらのみちなが)

平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし、兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡男・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほど...
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大陽警玄(たいようきょうげん)

中国・五代十国時代~宋時代の禅僧。梁山縁観に就いて嗣法。その法を嗣げる弟子が現れなかったため浮山法遠(大陽警玄の下で学んでいたが、既に臨済宗の法を受け嗣いでいたため)に法を預け、後に代付により投子義青に法が伝わる。生誕 943年命日 1027年<< 戻る
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源信(げんしん)- 恵心僧都(えしんそうず)

源信は、平安時代中期に比叡山で修行を積んだ天台宗の僧侶です。恵心僧都と尊称されます。源信は死後阿弥陀如来の来迎を受けて、極楽浄土へ生まれることを願う、浄土信仰を広めた僧として知られます。『往生要集』(おうじょうようしゅう)などにより源信が示した具体的な死後の世界のイメージは、後世へも多大な影響を及ぼしました。浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称されます。生誕 天慶5年(942年)、大和国(現在の奈良県)北葛城郡当麻に生まれました。源信の母が、高雄寺の観音像に祈願したところ、その霊験によって源信を授かったといわれ、その観音菩薩立像(重要文化財)は現存します。幼名は「千菊丸...
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安倍晴明(あべのせいめい)

平安時代の陰陽師。「晴明」を「せいめい」と読むことが多いが、これは音読みであり、諱本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖。官位は従四位下・播磨守。安倍晴明については『蘆屋道満大内鑑』による人物像が定着しているが、平安時代では最先端の学問(呪術・科学)であった「天文道」や占いなどを、体系としてまとめた思想としての陰陽道に関して、卓越した知識を持った陰陽師ともいわれ、当時の朝廷や貴族たちの信頼を受け、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいった。蘆屋道満こと道摩法師とはライバル関係にあった。晴明が死んだ11世紀の内に、安倍晴明は神秘...
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良源(りょうげん)- 元三大師

平安時代の天台宗の僧。 諡号は慈恵大師(じえだいし)。通称の元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。 第18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。生誕 延喜12年9月3日(912年10月15日)命日 永観3年1月3日(985年1月26日)<< 戻る
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空也(くうや)

空也とは、平安時代中期の僧侶。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称されます。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者として、空也流の念仏勧進聖は鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされています。空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されませんでした。踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれますが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はないといわれています。門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えたといわれています。空也を現した彫像のうち、重要文化財として国が指定し...
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梁山縁観(りょうざんえんかん)

中国・五代十国時代頃の禅僧。同安観志に就いて嗣法。弟子には大陽警玄、石門慧徹がいる。生誕 命日 << 戻る
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同安観志(どうあんかんし)

中国・五代十国時代頃の禅僧。洪州の出身。同安道丕に就いて嗣法。弟子には梁山縁観がいる。生誕 命日 << 戻る
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平将門(たいらのまさかど)

平安時代中期の関東の豪族。 平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐される。飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。獄門が歴史上で確認される最も古い例が、この平将門であるといわれている。この平将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こし...
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同安道丕(どうあんどうひ)

中国・五代十国時代頃の禅僧。洪州の出身。雲居道膺に就いて嗣法。弟子には同安観志がいる。生誕 命日 << 戻る
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相応和尚(そうおうかしょう)

相応和尚は近江国浅井郡の出身で、孝昭天皇の第一皇子天帯彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の子孫と伝えられています。15歳の時、鎮操(ちんそう)大徳に随って比叡山に登り17歳で剃髪し沙弥になりました。その後、法華経常不軽品によって大菩提心を発し、六、七年間一日も欠かさず根本中堂に花を供え続けていました。その信心堅固な青年僧を見いだし、年分度者(ねんぶんどしゃ)として得度せしめたのは慈覚大師円仁大徳でした。大師は大納言藤原良相(よしみ)からの度者の推薦依頼もあり、良相の一字を取って「相応(そうおう)」と名付けられました。比叡山の回峯行は、役小角(えんのおづぬ)を開祖とする南山修験に対...
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聖宝(しょうほう)

三論宗の中興の祖とされる聖宝は、元興寺流の出身です。三論宗はインドの龍樹の中論・十二門論、その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、論を所依とする)です。空を唱える事から、空宗ともいわれます。その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もあります。中国隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成しました。吉蔵の『三論玄義』は三論宗の立場で書かれた仏教概論です。生誕 832年命日 909年<< 戻る
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雪峰義存(せっぽうぎぞん)

中国唐末から五代十国時代の禅僧。泉州南安県の出身。諡は真覚大師。徳山宣鑑に就いて嗣法。弟子には玄沙師備、雲門文偃、長慶慧稜、鼓山神晏、保福従展など多数。『雪峰眞覺禪師語録』・修行時代に典座を志し、いつも飯杓子を持って歩いていたほどであったので、禅宗寺院の典座寮は、またの名を雪峯寮と呼ばれることがあります。・一人の雲水が徳山宣鑑に弟子入りしようとして渓流に添って上って行くと、上流から野菜の切れ端が流れて来たので、「一筋の野菜といえど粗末にするようなところはろくな道場ではあるまい」と思い山をおりかけると、一人の僧(雪峰義存)がこの流菜を追いかけて下ってきたことから、雲水は思い直して徳山宣鑑に入門し...
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菅原道真(すがわらのみちざね)

平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐天皇のもとでは右大臣にまで昇りつめます。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没しました。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となり、現在は学問の神として親しまれています。一方、菅原道真の家族は仏教信者であり、母は命の危険があった幼い息子・道真の命を救うために観音像の造立を発願(ほつがん)します。それを果たせずに亡くなった母の遺志を継ぎ、その費用を工面するため節約して...
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雲居道膺(うんごどうよう)

中国唐代の禅僧。諡は弘覚大師。唐幽州の出身。翠微無学に参禅の後、雲巌曇晟に就いて嗣法。弟子には同安道丕がいる。雲居山龍昌禅院(真如禅寺)。雲居山に30年間住んでいた。生誕 835年命日 902年<< 戻る
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曹山本寂(そうざんほんじゃく)

中国唐代の禅僧。諡は元証大師。泉州莆田県の出身。洞山良价に就いて嗣法。『曹山元証大師語録』洞山を下りて後、請いを受けて撫州の荷玉山に赴き、その名を曹山に改め、その法席には学人が雲集した。曹山という山の名は六祖大鑑慧能禅師の住した曹渓山を慕ったことから名付けられた。曹洞宗の名の由来は、師の洞山良价の「洞」と曹山本寂の「曹」をとったものという説がある。なお、先述の大鑑慧能の住した曹渓山の「曹」をとったものという説もある。また、洞曹宗という表記も残されている。しかし、曹山の系統は長く続かず、弟弟子の雲居道膺の系統によって後世に伝えられることになる。生誕 840年命日 901年<< 戻る
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在原業平(ありわらのなりひら)

平安時代初期から前期にかけての貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。 六歌仙・三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。 全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。ちはやぶる 神世もき聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは — 『古今和歌集』『小倉百人一首』撰歌。落語「千早振る」も参照。世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし — 『古今和歌集』撰歌。忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは — 『古今和歌集』巻十八、雑歌下。から衣 きつ...
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洞山良价(とうざんりょうかい)

中国唐代の禅僧。諡は悟本大師。俗姓は兪。越州諸曁県の出身。五家七宗の一つ、曹洞宗の開祖。雲巌曇晟に就いて嗣法。弟子には雲居道膺、曹山本寂など多数。筠州洞山(江西省宜春市宜豊県)を開き、門徒は500~1000人に達したという。著書に『宝鏡三昧』がある。悟本大師。洞山悟本大師。五台山の高僧である五洩霊黙のもとへ遣わされ、21歳のとき受戒した。後に南泉普願、潙山霊祐にも師事。最後に雲巌曇晟に就いて嗣法。生誕 元和2年(807年)命日 咸通10年3月8日(869年4月23日)<< 戻る
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臨済義玄(りんざいぎげん)

中国唐代の禅僧。諡は慧照禅師。曹州南華県の出身。黄檗希運に就いて嗣法。真定府臨済院。『臨済慧照禅師語録』黄檗三打の機縁で大悟する。・「慧照大師は、講経の家門をなげ捨てて、黄檗の門人となれり。黄檗の棒を喫すること三番、あはせて六十挂杖なり。大愚のところに参じて省悟せり。ちなみに鎭州臨済院に住せり。黄檗の心を究尽せずといへども、相承の仏法を臨済宗となづくべしといふ一句の道取なし、半句の道取なし。豎拳せず、拈払せず。」(「正法眼蔵」仏道)生誕 命日 咸通8年1月10日(867年2月18日)または、咸通7年4月10日(866年5月27日)<< 戻る
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徳山宣鑑(とくざんせんかん)

中国唐代の禅僧。簡州陽安県の出身。諡は見性大師。龍潭崇信に就いて嗣法。弟子には雪峰義存、巌頭全奯がいる。武陵徳山古徳禅院。30年間にわたって龍潭崇信に師事し、潙山霊祐にも参禅した。徳山の棒。生誕 建中元年(780年)命日 咸通6年12月3日(865年12月24日)<< 戻る
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真済(しんぜい)

平安時代前期の真言宗の僧。父は巡察弾正紀御園。空海の十大弟子の一人で、真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられた。詩文にも優れ、空海の詩文を集めた『性霊集』を編集している。また、長く神護寺に住し、その発展に尽力した。高雄僧正・紀僧正・柿本僧正とも称される。生誕 延暦19年(800年)命日 貞観2年2月25日(860年3月25日)<< 戻る
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潙山霊祐(いさんれいゆう)

中国唐代の禅僧。諡は大圓禅師。俗姓は趙。福州長渓県(福建省寧徳市霞浦県)の出身。法語として『潙山警策』がある。百丈懐海に就いて嗣法。弟子には仰山慧寂、香厳智閑など多数。大円禅師。大潙大円禅師。貞元元年(785年)、15歳で出家、福州建善寺の法常律師のもとで剃髪し、杭州龍興寺で受戒した。経律を学ぶ。貞元9年(793年)、23歳で洪州に赴いて百丈懐海に学び、その法嗣となる。元和15年(820年)頃、潙山密印寺(湖南省長沙市寧郷市潙山郷)に住して、多数の門弟を訓育した。住寺は同慶寺の号を賜った。弟子の中に仰山慧寂があり、彼らの門流を、後世「潙仰宗」と称した。生誕 大暦6年(771年)命日 大中7年(...