【仏教用語/人物集 索引】

一遍(いっぺん)

投稿日:1289年8月23日 更新日:

 
一遍とは、鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。「一遍」は房号であり、法諱は「智真」。一遍上人、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)、捨聖(すてひじり)と尊称されます。著作に『一遍上人語録』があります。

延応元年(1239年)伊予国(愛媛県)久米郡の豪族、河野通広(出家して如仏)の第2子として生まれます。幼名は松寿丸。

10歳の時に母が死ぬと父の勧めで天台宗の継教寺で出家、法名は随縁といいました。建長3年(1251年)13歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上に渡り浄土宗西山義を学びます。聖達は、随縁に浄土教の基礎的学問を学ばせるため、肥前国清水にいた華台のもとへ最初の1年間派遣し、華台は法名を智真と改めさせました。

「法事讃」(巻下)に「極楽無為涅槃界は、随縁の雑善をもってはおそらく生じ難し」とあり、念仏以外の善は雑善(少善根)であり、往生できない根源の雑善である随縁を名とするのは好ましくないとの判断でした。建長4年(1252年)から弘長3年(1263年)まで、聖達のもとで修学しています。

弘長3年(1263年)25歳、父の死(5月24日)をきっかけに還俗して伊予に帰りますが、一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271年)32歳で再び出家し、信濃の善光寺や伊予の窪寺・岩屋寺で修行しています。窪寺では十一不二の偈を感得します。

文永11年(1274年)2月8日に遊行を開始し、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始めます。紀伊では、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩みますが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受けます。

この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとします。

建治2年(1276年)には九州各地を念仏勧進し、鹿児島神宮で神詠「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶに生まれこそすれ(常に南無阿弥陀仏と念仏すれば、弥陀と一体になり浄土に生まれることが出来る)」を拝して、建治3年(1277年)に豊後国大野荘で他阿に会うなどして入門者を増やし、彼らを時衆として引き連れるようになりました。

さらに各地を行脚し、弘安2年(1279年)には伯父の通末が配流された信濃国伴野荘を訪れた時に踊り念仏を始めます。踊り念仏は尊敬してやまない市聖・空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していました。弘安3年(1280年)に陸奥国稲瀬にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を巡ります。

弘安5年(1282年)には鎌倉入りを図るも拒絶されます。弘安7年(1284年)上洛し、四条京極の釈迦堂(染殿院)に入り、都の各地で踊り念仏を行ないます。弘安9年(1286年)、四天王寺を訪れ、聖徳太子廟や当麻寺、石清水八幡宮を参詣しました。

弘安10年(1287年)は書写山圓教寺を経て播磨国を行脚し、さらに厳島神社にも参詣します。1274年以来14年の遊行を経て、正応元年(1288年)瀬戸内海を越えて故郷伊予に戻り、菅生の岩屋へ巡礼、繁多寺に3日間参籠して浄土三部経を奉納、12月16日一遍一行は3艘の船に分乗して今治の別宮大山祇神社付近から大三島へ渡海、河野氏の氏神である大山祇神社に3日間参籠後、今治に戻ります。

正応2年(1289年)1月下旬に大山祇神社の供僧長観(1月24日)、地頭代の平忠康(27日)など複数の大山祇神社関係者に一遍を招待すべしとの夢告があり、2月5日大山祇神社の社人が招請のため二十余艘の船団で別宮へ渡海、招かれた一遍一行は2月6日再度大山祇神社参詣、2月9日大山祇神社の桜会(さくらえ)に参列して魚鳥の生贄を止めるよう懇請、その後で善通寺、曼荼羅寺を巡礼しました。

6月1日阿波の大鳥の里の川辺で発病し、7月初めに淡路に渡り大和大国魂神社、次いで志筑神社に詣でて結縁した後、7月18日明石に渡り、死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で亡くなり、15年半の遊行を終えました。

生誕 延応元年2月15日(1239年3月21日)

命日 正応2年8月23日(1289年9月9日)

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