中道とは、二つの対立するものを離れていることです。原始仏教では厳しい苦行と快楽主義の両極端を退けた考え方ですが、単に二つの中間をとるというのではなく、二つの極端から離れた自由な立場を表しているので、矛盾や対立を超越していることになります。ブッダ(お釈迦様)は厳しい苦行と何不自由がない生活を体験した上で、中道こそが真理へ到る修行方法だと気付いたのでした。
出家をする前のブッダはシッダッタという名前で、釈迦族の王子でした。地方の統治者の王子として恵まれて育ったシッダッタは、望まなくとも何不自由がない中で生活していたと考えられています。その後、真理(悟り)を求めるために出家の決意を決めたシッダッタは、ウルヴェーラの苦行林に入り、6年間の苦行を続けました。修行をするということは苦行を積むというのがインドでは一般的であったので、シッダッタも修行者が多く集まるガヤのウルヴェーラの苦行林に来たのでした。シッダッタは苦行により命を落とす寸前までやせ、それでも真理を見いだせないまま苦行を続けました。
ある時、歌を歌って通り過ぎる農夫の声が聞こえてきました。「絃は強すぎると切れる。弱いと弱いでまた鳴らぬ。程ほどの調子にしめて、上手にかき鳴らすが良い。」シッダッタはこれを聞いて、このような苦行に耐えることが出来るようになっても、極端な苦行では真理どころか、無駄に心や身体を傷つけるだけであると気づきました。この中道こそが真理へ到る修行方法だと気づき、苦行を放棄してしまいます。そして、さらなる真理へ到る方法として中道の修行を続け、ついに悟りを得たブッダとなります。後に八正道として説かれ、中道の修行方法は仏教の基本教義として守られていきます。
現代に生きる一般人でも中道は実践出来ます。人それぞれに経験してきたものは違いますが、その範囲で中道を実践すればいいのではないでしょうか。ブッダが実際に経験したことをまったく同じように追体験する必要もなければ、王子になったり、同じ環境で苦行を追体験することも出来ません。
初期仏教
・「走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく」(スッタニパータ 8偈)
・「賢者は、両極端に対する欲望を制し、感官と対象との接触を知り尽くして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞する事柄に汚されない。」(スッタニパータ 778偈)
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