今回は7月5日に94歳でお亡くなりになられた板橋興宗禅師について話したいと思います。私が大学で仏教学を勉強している時、お寺生まれの学生と共に、どのお寺で修行したいか話したことがあります。ある学生が「板橋禅師がいたら、總持寺にするのになぁ。辞めたからなぁ」と言っていて、彼は卒業後、永平寺に行きました。
總持寺の貫主は終身制ですが、板橋禅師は途中で辞めた珍しい例となっています。「あのお坊さんがいるから、このお寺で修行したい」、そんなお坊さんがいるのか!?という驚きと、「1年修行に行けばお坊さんの資格がもらえる」という程度にしか聞いていなかった私の感覚では、「何?何?どういうこと??」と、理解できないまま、初めて聞く「板橋禅師」というキーワードが私の脳裏に深く刻まれたのでした。
そう言えば、大学選びの際にも、「大学に行って何を勉強したいのか?」という点が、仏教を学びたいと思う以前には足りていませんでした。「あの先生がいるから、この大学を選ぶ」という話も聞いたことがあり、そのお寺版です。卒業資格とか、僧侶資格のためにそこに所属しているだけか、「その先生に就いて学びたい!」という気持ちがあるかでは、確かに大きな違いがあるように思えます。
その後、本山修行中や師匠の話などでも板橋禅師の話題がたまにあり、書籍や仏教系の冊子に対談などが掲載されているのを見つけるたびに、その話に引き付けられるようになりました。
板橋禅師が總持寺で貫主をしている時にお付きをしていた人と、板橋禅師が退任してから話をする機会がありました。貫主というのはそのお寺を代表するのと同時に、宗派を代表するような人です。必ずお付きをする人と行動して、出かける時には専用車というのが定番ですが、禅師の場合は一人で電車に乗り、自由に出かけてしまいます。
板橋禅師の身内の方が亡くなられた時、親族の方が自然と「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と口に唱えていたのを聞いたそうです。それで、禅師は「そうか!」と思って、自然に出る「なんまんだぶ」という言葉を日常に採り入れました。
愚痴が出そうになったら「なんまんだぶ」と唱えることを実践したのです。「なんまんだぶ」とは「南無阿弥陀仏」のことなので、曹洞宗の禅師である板橋禅師がそんなことでは困ると苦情が来たそうです。宗旨替えなさったのかと指摘され、「なんまんだぶ」を「ありがとさん」に変えたというのも禅師らしさです。宗派の枠を超越していたのだと思います。
愚痴が「出そうになる」というのは、考え事が起こるタイミングに「なんまんだぶ」や「ありがとさん」を挟むと、思考が出てくる瞬間を一旦は止める事ができるということです。私が見た記事では「ありがと、ありがと、ありがとさん」とも書かれていて、どのようなイントネーションか分かりませんが、確かにそこから愚痴は出てきそうにありません。
禅師とは直接は話したことがないものの、石川県の總持寺祖院でお目にかかっていたことはあります。お坊さんの団体研修で出向いた食事の際、禅師は上座に坐り、我々は下々でお膳を食す機会がありました。
禅師は食事を済ますと、すっと立ち上がり、大小二つあったお膳を両手に持ち退席。通常ならば、このお膳は、一般の方にも分かりやすく言うと、懐石料理屋に並んでいるような形式なので、食べ終わった人はお膳を持っていったりはしません。
禅師が示したのは「自分のことは自分でする」ということだと感じました。ちなみに、禅師が後片付けを始めたからお世話係が慌てていたのと、研修参加者もざわついていました。「この身で示す」と言わんばかりですが、かしこまった姿でも、わざとらしい姿でもなく、ごく自然な姿を感じました。
話は前後しますが、その席に着かれる様子を見ていると、光を発しているように見えました。照明ですか?そうかもしれません。しかし、枠に縛られず、世の中を照らす存在であったことは間違いありません。少なくとも、私はそう思いました。
先月の初め、禅師が夢に出てきたので、あるページに記録も残していますが、その夢を見て、目が覚める思いというか、本当に目が覚めました。どういうわけか空から見下ろしていると、どこかのお寺の山門で、大きな香炉を前にして、禅師ともう一人のお坊さんが話している。そんな光景を有難く見ているという設定でした。
その頃、図書館でちらっと禅師の本が目に入りながら、既に何度も読んだので違う本を借り、そのことが夢に反映されたのだろうかとも思っていましたが、それから程なくお亡くなりになられ、偉大さが身に沁みます。
禅師の遺偈にはこう記されています。
即如眞實
九十四年
閑月一路
遊化無邊
読み方も合っているのか定かではありませんが、その遺偈から、あえて、一字をピックアップするならば「閑」(かん)という字です。「ひま」「しずか」という意味があります。板橋禅師の禅師号は「閑月」。禅師は「閑」という字が好きだったと思います。
むかし、お百姓さんが一日中働いて夕方、我が家に帰り、門に「かんぬき」を差し込んで、やれやれ「一日の仕事も終わったな」という、ホッと一息ついた安心感、満たされた静けさ、この心情を表現しているのが、この「閑」の一字だと禅師は示していました。
板橋禅師は「一生の仕事も終わったな」という、ホッと一息ついた安心感、満たされた静けさを遺偈に示してくれたのだと感じています。ありがとうございました。合掌