中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧。石霜楚円禅師に就いて嗣法。弟子には白雲守端、茶陵郁山主、石霜守孫、長慶顕瓊、君山守巽、法輪惟一、欽山智因、保寧仁勇など多数。語録に『楊岐會和尚語録』、『楊岐會和尚後録』、『楊岐會和尚語要』。
筠州の古刹である九峰寺で出家得度し、諸国行脚の後、石霜楚円の門下となり、潭州瀏陽道吾山、瀏陽石霜山へと移り大悟する。筠州の九峰寺に戻った後、請われて袁州楊岐山の普明院の住持となります。
楊岐派の祖として知られ、日本に伝えられた臨済禅のうち、黄龍派の禅を伝えた栄西禅師以外の全てがこの楊岐派に属することは特筆すべきことでしょう。
・「楊岐山の会禅師、住持の時、寺院旧損してわづらい有りし時に、知事申して云く、「修理有るべし。」
会云く、「堂閣破れたりとも露地樹下には勝れたるべし。一方破れてもらば一方のもらぬ所に居して坐禅すべし。堂宇造作によりて僧衆得悟すべくは、金玉をもてもつくるべし。悟りは居所の善悪によらず、ただ坐禅の功の多少に有るべし。」と。
翌日の上堂に云く、「楊岐はじめて住するに屋壁疎なり。満床にことごとくちらす雪の珍珠。くびを縮却してそらに嗟嘘す。かえって思う古人の樹下に居せし事を。」と。」(『正法眼蔵随聞記』81、楊岐山の会禅師)
生誕 淳化3年(992年)
命日 皇祐元年(1049年)または慶暦6年(1046年)
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