空海上人

便り

高野山金剛峯寺-和歌山県伊都郡

・高野山金剛峯寺 高野山真言宗 和歌山県伊都郡高野町大字高野山132総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺なのです。 「では、本堂はどこ?」という疑問がわいてくるでしょう。高野山の本堂は、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になります。高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われます。山内に点在するお寺は、塔頭寺院(たっちゅうじいん)といいます。お大師さまの徳を慕い、高野山全体を大寺(だいじ 総本山金...
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真言八祖(しんごんはっそ)

真言八祖とは、真言密教における8人の祖師のことです。付法の八祖、伝持の八祖という真言密教には2つの八祖があります。いずれの系譜も日本真言宗の宗祖となる空海に帰結します。付法の八祖は、教えの系譜として、①大日如来、②金剛薩埵、③龍猛、④龍智、⑤金剛智、⑥不空、⑦恵果、⑧空海伝持の八祖は、日本に伝わるまでの歴史に関わった系譜として、①龍猛、②龍智、③金剛智、④不空、⑤善無畏、⑥一行、⑦恵果、⑧空海<< 戻る
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付法の八祖(ふほうのはっそ)

付法の八祖とは、真言八祖のうち、教えの系譜です。そのうち、大日如来と金剛薩埵は実在しない人物です。①大日如来(だいにちにょらい)大宇宙の根源、密教の教主。②金剛薩埵(こんごうさった)大日如来の直弟子で説法を聞き衆生に伝える。③龍猛(ナーガールジュナ)金剛薩埵から密教経典を授かる。④龍智(ナーガボーディ)龍猛から密教を伝授される。⑤金剛智(こんごうち)インドで龍智から密教を学んで唐に渡り「金剛頂経」を伝える。⑥不空(ふくう)西域生まれ。貿易商の叔父に連れられ、唐の長安で金剛智に師仕し「金剛頂経」を翻訳。⑦恵果(けいか)中国人僧侶。金剛界・胎蔵界両部の密教を受け継ぐ。⑧空海(くうかい)恵果より金剛...
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伝持の八祖(でんじのはっそ)

伝持の八祖とは、真言八祖のうち、真言密教が日本に伝わるまでの歴史に関わった実在する人物の系譜です。以下一覧の( )内は造形された場合の一般的によく見られる持物や印。①龍猛(ナーガールジュナ)金剛薩埵から密教経典を授かる。(三鈷杵を右手に持っている。)②龍智(ナーガボーディ)龍猛から密教を伝授される。(経文を右手に持っている。)③金剛智(こんごうち)インドで龍智から密教を学んで唐に渡り「金剛頂経」を伝える。(数珠を右手に持っている。)④不空(ふくう)西域生まれ。貿易商の叔父に連れられ、唐の長安で金剛智に師仕し「金剛頂経」を翻訳。(外縛印を結んでいる。)⑤善無畏(ぜんむい)インド生まれ。大乗仏教を...
人物

弘法大師 空海上人(こうぼうだいしくうかいしょうにん)

空海は、宝亀5(774)年6月15日、讃岐国の屏風ガ浦(現在の四国香川県善通寺市)で誕生しました。父は、郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は、玉依御前(たまよりごぜん)の三男で、幼名を真魚(まお)といいました。延暦7(788)年、平城京(古都。784年、長岡京に遷都)に出て、延暦8(789)年、母方の叔父さんである阿刀大足(あとのおおたり)について論語、孝経、史伝、文章などを学びました。延暦11(792)年、18歳で長岡京の大学寮に入り、明経道、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられます。大学寮の勉強だけではもの足らず、大学寮を去って仏道修行を始めました。一説には奈良岩渕寺の勤...
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最初の万燈万華会

天長9(832)年8月22日、高野山において最初の万燈万華会(まんどうまんげえ)を修しました。萬燈萬華会(略して萬燈会)は、多くの灯明と多くの華を仏さまに供養し、人々の望みが叶うよう祈る法要です。例えば、突然の停電で暗くなると不安に襲われますが、懐中電灯をつけるとか、ロウソクに火を灯せば、ホッと安心するはずです。光のもたらすこうした効能から、灯明を物事の真実を見極める仏さまの智恵のシンボルとし、また我がいのちを燃やして周囲に幸せを及ぼす、仏さまの働きの象徴としました。 一方、自然の中に育つ草木は、厳しい気候の変化に耐え抜いて、美しい花を咲かせます。そこで花は、苦難に負けずに耐え抜く力(忍辱=に...
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空海上人、綜芸種智院を開設

天長5(828)年、空海上人は東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受け、一般の人たちが誰でも勉強できるように私立の教育施設「綜芸種智院」を開設しました。<< 戻る
年表

空海上人、東寺を賜わる

弘仁14(823)年1月、空海上人は太政官符により東寺を賜わり、真言密教の道場としました。<< 戻る
年表

空海上人、高野山を賜わる

弘仁7(816)年、空海上人は嵯峨天皇より高野山を賜わり入住する事になり修法や著述などをして過ごされました。<< 戻る
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金剛界結縁灌頂、胎蔵灌頂の開壇

弘仁3(812)年11月15日、空海上人は高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇し、12月14日には胎蔵灌頂を開壇しました。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼりました。<< 戻る
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真言宗の開宗

弘仁元(810)年、空海上人は嵯峨天皇から書を奉り、「真言宗」という宗旨を開く許しを得ました。<< 戻る
年表

空海上人、高雄山寺に入る

大同4(809)年、空海上人は上京の勅宣(ちょくせん)により和気氏の私寺であった京都高雄山寺(たかおさんじ、後の神護寺))に入りました。<< 戻る
年表

空海上人、観世音寺に入る

大同2(807)年、朝命によって空海上人は筑紫の観世音寺に住みます。<< 戻る
年表

空海上人、唐から帰国

805年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂し、元和元(延暦25、806)年1月17日、弟子を代表して碑文を撰しました。3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在し、土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集しました。8月に明州を出航して、大同元(806)年10月、九州博多に到着し、集めてきた経論の整理をされ、帰朝上表(きちょうじょうひょう)を朝廷に奉進(ほうしん)しました。<< 戻る
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空海上人、真言密教の第八祖に

永貞元(延暦24、805)年2月、長安の西明寺に滞在し、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵に学び、梵語の経本や新訳経典を与えられる。5月より、正統の真言密教を継がれた第七祖である青龍寺東塔院(しょうりゅうじとうとういん)の恵果和尚(けいかかしょう)を訪れ、6月に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂、8月に伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられ、真言密教の第八祖となりました。<< 戻る
年表

空海上人、留学僧として唐へ

延暦23(804)年、31歳の時、それまで私度僧であったのを東大寺戒壇院(かいだんいん)で具足戒を受け公式に僧となり、この頃、名を空海とあらためたといわれています。同年7月6日、留学僧として遣唐使の一行と共に、肥前(長崎県)松浦郡田浦(たのうら)から唐へ出港します。遣唐使船4艘のうち2艘は沈没あるいは航行不能に陥ってしまいますが、天台宗を開いた最澄も、このときのもう1艘に乗って唐に渡りました。<< 戻る
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空海上人の仏道修行

延暦7(788)年、平城京(古都。784年、長岡京に遷都)に出て、延暦8(789)年、母方の叔父さんである阿刀大足(あとのおおたり)について論語、孝経、史伝、文章などを学びました。延暦11(792)年、18歳で長岡京の大学寮に入り、明経道、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられます。大学寮の勉強だけではもの足らず、大学寮を去って仏道修行を始めました。一説には奈良岩渕寺の勤操大徳(ごんそうだいとく)から「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を授かり、大峯山(おおみねさん)や阿波(徳島県)の大滝ガ嶽(たいりゅうがだけ)、土佐(高知県)の室戸崎(むろとのさき)などの霊所で修行を続けられま...
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空海上人の誕生

空海上人は、宝亀5(774)年6月15日、讃岐国の屏風ガ浦(現在の四国香川県善通寺市)で誕生しました。父は、郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は、玉依御前(たまよりごぜん)の三男で、幼名を真魚(まお)といいました。<< 戻る