仏教を本気で学ぶ 釈迦堂(しゃかどう) 釈迦堂とは、釈迦如来を本尊とする仏堂のことです。また、その全てを釈迦堂というわけではなく、宗派や、伽藍が整備された年代、寺院規模などにより呼び方の違いがあります。釈迦堂であるからこの形で建てられているという見分けは出来ません。比叡山延暦寺の座主円澄が9世紀初め西塔に建立したのが初めとされています。その他、京都の清涼寺の嵯峨釈迦堂や大報恩寺の千本釈迦堂などが有名です。(釈迦堂 比叡山延暦寺)<< 戻る 2021.04.22 仏教を本気で学ぶ
便り 拝観再開のお知らせ(比叡山延暦寺) 4/20より新型コロナウイルス感染症の拡大防止の為、拝観等を停止していましたが、滋賀県下の緊急事態宣言が解除されたことを受け、山上山下の諸堂拝観及び施設利用につき、下記の通り時間を短縮し再開いたします。各所において引き続き感染予防と拡散防止対策に努めてまいりますが、ご参拝を予定される皆様におかれましても予防と対策にご協力くださいますよう何卒宜しくお願い申し上げます。御参拝を予定されていた皆様にはご不便をおかけしましたことお詫び申し上げますと共に、ご理解ご協力を賜りましたことに深く感謝申し上げます。この事態の一刻も早い終息と皆様のご健康をお祈りいたします。(リンク先より)・拝観再開のお知らせ(比... 2020.05.20 便り
便り 本日9月21日(土)、来週9月28日(土)の2週に渡り、19時30分から「ブラタモリ」で延暦寺が特集されます🙏🏻 どうぞご覧ください✴︎ 本日9月21日(土)、来週9月28日(土)の2週に渡り、19時30分から「ブラタモリ」で延暦寺が特集されます🙏🏻 どうぞご覧ください✴︎本日9月21日(土)、来週9月28日(土)の2週に渡り、19時30分から「ブラタモリ」で延暦寺が特集されます🙏🏻どうぞご覧ください✴︎#延暦寺 #比叡山 #ブラタモリ NHKドキュメンタリー - ブラタモリ「比叡山~比叡山はなぜ“母なる山”になった?~」 延暦寺【公式】 (@enryakuji_hiei) 2019年9月21日 2019.09.21 便り
市区町村の宗派別寺院一覧 滋賀県大津市の天台宗寺院 寺院情報を宗派別に掲載。住所等を参考にしてご利用ください。👍2 延暦寺 天台宗 滋賀県大津市坂本本町4220👍2 三井寺(園城寺) 天台寺門宗 滋賀県大津市園城寺町246👍2 西教寺 天台真盛宗 滋賀県大津市坂本五丁目13-1👍2 水観寺 天台寺門宗 滋賀県大津市園城寺町246👍2 微妙寺 天台寺門宗 滋賀県大津市小関町94鶏足院 天台宗 滋賀県大津市坂本本町4225正法寺 天台宗 滋賀県大津市仰木町4483華開寺 天台宗 滋賀県大津市仰木町4459葛川息障明王院 天台宗 滋賀県大津市葛川坊村町155大興坊 天台宗 滋賀県大津市坂本3-4-32(宝林寺内)理性院 天台宗 滋賀県大津市坂本4-8... 2018.09.05 市区町村の宗派別寺院一覧
便り 第17回「心の集いin比叡山」!2日目 前回に引き続き、第17回「心の集いin比叡山」のご報告です。(リンク先より)・第17回「心の集いin比叡山」!2日目(しょうぐうさんブログ) 2018.08.29 便り
年表 日什上人、比叡山を下り東光寺の住職に 1372年(応安5年)、会津領主の蘆名直盛の招きにより故郷会津に帰り、現・羽黒山湯上神社の別当寺・羽黒山東光寺(廃寺)の住職となり、東北一帯の学僧に天台教学を講じました。<< 戻る 1372.01.01 年表
仏教を本気で学ぶ 日什上人、比叡山での修行 日什上人は15歳の時相次いで両親を亡くされ、1333年(正慶2年)19歳の時に出家して比叡山横川の慈遍僧正(吉田兼好の兄)のもとに入室・出家し、名を玄妙と改めて勉学修行を行いました。1352年(文和元年)38歳の時、比叡山学頭に抜擢され、玄妙能化(師範・教授)となった。<< 戻る 1333.01.01 仏教を本気で学ぶ年表
年表 瑩山禅師、諸国行脚へ 弘安8(1285)年1月、諸国行脚(あんぎゃ)の途に入り、越前大野の宝慶寺(ほうきょうじ)の寂円禅師、京都・万寿寺の宝覚禅師、東福寺の東山湛照や白雲恵暁禅師など様々な諸師に訪ね、また比叡山に上っては天台教学や一切経を学びました。弘安9(1286)年、紀州(和歌山)由良の興国寺の心地覚心禅師を訪ねました。正応元(1288)年秋、越前に戻り、再び宝慶寺を訪ねた後、永平寺に帰山します。<< 戻る 1285.01.01 年表
年表 日蓮聖人 比叡山~各地に遊学 寛元3(1245)年、比叡山・定光院にて俊範法印に就学しました。寛元4(1246)年、三井寺へ遊学。宝治2(1248)年、薬師寺、仁和寺、高野山・五坊寂静院へ遊学。建長2(1250)年、天王寺、東寺へ遊学し、ひたすら勉学に励まれました。諸経・諸宗の教学を学んでゆく中で、法華経こそが全ての人々を救うことのできる唯一の経典であることを確信し、清澄寺に戻ります。<< 戻る 1245.01.01 年表
人物 慈円(じえん) 平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧侶。歴史書『愚管抄』を記したことで知られます。諡号は慈鎮和尚、通称に吉水僧正、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円と紹介されています。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたります。幼くして青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒します。治承2年(1178年)に法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親王の没後、空席になった青蓮院を継ぎました。建久3年(1192年)、38歳で天台座主になります。その後、慈円の天台座主就任は4度に及びました。吉田兼好の『徒然草』には、「一芸ある者なら... 1225.09.25 人物仏教を本気で学ぶ年表
年表 道元禅師の出家得度 建保元(1213)年、比叡山にいる母方の叔父良顕を訪ね、建保2(1214)年、14歳の禅師は比叡山座主・公円僧正について剃髪出家得度し、仏法房道元と名乗ります。比叡山では天台教学を中心に学びましたが、経文にある「本来本法性 天然自性身」という文言に大きな疑問をいだきます。その解決のために園城寺(三井寺)の公胤僧正を訪ね、建保5(1217)年、そのすすめにより建仁寺へ向かい、栄西禅師の高弟である明全和尚に師事されます。<< 戻る 1214.01.01 年表
年表 親鸞聖人の得度 養和元(1181)年、9歳の春、伯父の日野範綱(ひののりつな)にともなわれて、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度し、範宴(はんねん)と名のりました。慈円和尚は歴史書『愚管抄』を記したことで知られ、また、後に専修念仏の法然聖人の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然聖人や親鸞聖人を庇護しています。出家後、比叡山にのぼってからの20年間、主に横川の首楞厳院で不断念仏を修する堂僧として、ひたすら学問と修行に励みました。<< 戻る 1181.01.01 年表
人物 良忍(りょうにん) 良忍は、平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖。聖応大師。 尾張国知多郡の領主の秦道武の子。良仁とも書き、房号は光静房または光乗房。生年は延久4年説もある。比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。尾張国知多郡の富田荘(現愛知県東海市富木島町)に誕生しました。父は藤原秦氏兵曹道武、母は熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女でした。生まれつき美声の持ち主だったところから、幼名を音徳丸と名づけられました。十二歳で比叡山に登り、良賀僧都のもとで得度し、名を光乗坊良仁と与えられました。良忍... 1132.02.01 人物仏教を本気で学ぶ年表
人物 相応和尚(そうおうかしょう) 相応和尚は近江国浅井郡の出身で、孝昭天皇の第一皇子天帯彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の子孫と伝えられています。15歳の時、鎮操(ちんそう)大徳に随って比叡山に登り17歳で剃髪し沙弥になりました。その後、法華経常不軽品によって大菩提心を発し、六、七年間一日も欠かさず根本中堂に花を供え続けていました。その信心堅固な青年僧を見いだし、年分度者(ねんぶんどしゃ)として得度せしめたのは慈覚大師円仁大徳でした。大師は大納言藤原良相(よしみ)からの度者の推薦依頼もあり、良相の一字を取って「相応(そうおう)」と名付けられました。比叡山の回峯行は、役小角(えんのおづぬ)を開祖とする南山修験に対... 0918.11.03 人物仏教を本気で学ぶ年表
仏教を本気で学ぶ 伝教大師の諡号が贈られる 貞観8(866)年、清和天皇より最澄上人に伝教大師の諡号が贈られました。大師号も日本ではこれが最初です。<< 戻る 0866.01.01 仏教を本気で学ぶ年表
年表 延暦寺という寺号を授けられる 弘仁14(824)年、嵯峨天皇は最澄上人の死を惜しまれ、延暦寺という寺号を授けられました。このときから比叡山寺(日枝山寺)から延暦寺と呼ばれるようになりました。年号を寺号にしたのは、日本ではこれが最初です。<< 戻る 0824.01.01 年表
人物 伝教大師 最澄上人(でんぎょうだいし さいちょうしょうにん) 最澄とは、平安時代の僧で、日本天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られます。中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建立して天台宗の開祖となりました。伝教大師とは、最澄のことで、日本で最初に賜った大師号です。最澄は、神護景雲元(767)年8月18日、現在の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として誕生しました。俗名は広野(ひろの)です。宝亀9(778)年、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り行表の弟子となります。宝亀11(780)年11月12日、14歳で国分寺僧補欠として得度し、「最澄」という名前が付きました。やがて奈良の都に行き、... 0822.06.04 人物仏教を本気で学ぶ年表
仏教を本気で学ぶ 天台法華宗年分学生式を奏上 弘仁9(818)年5月13日、『天台法華宗年分学生式』(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき)(『六条式』『山家学生式』(さんげがくしょうしき)とも)を最澄上人が天皇に奏上しました。そこには、比叡山での教育方針や修行方法などが示され、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づけています。国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、一隅を照す、此れ則ち国宝なりと。古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用なり、能く行い能く言う... 0818.05.13 仏教を本気で学ぶ年表
便り 比叡山延暦寺-滋賀県大津市 ・比叡山延暦寺 天台宗 滋賀県大津市坂本本町4220最澄は12歳で近江の国分寺行表(ぎょうひょう)の弟子となり、宝亀11年(780)に得度、延暦4年(785)に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(250戒)を受け、国に認められた正式な僧侶となられたのです。受戒後3ヵ月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り修行の生活に入られました。そして若き僧最澄は願文を作り、一乗の教えを体解(たいげ)するまで山を下りないと、み仏に誓いました。その後、延暦7年(788)に一乗止観院(後の根本中堂)を創建、本尊として薬師如来を刻まれました。最澄亡き後、一乗止観院は「延暦寺」の寺額を勅賜され、比叡山延暦寺と呼ばれるようになりま... 0788.01.01 便り年表
年表 最澄上人、具足戒を受ける 最澄上人は奈良の都に行き、さらに勉学を積みました。そして延暦4(785)年、東大寺で具足戒を受けました。受戒後、比叡山に籠り一人修行を続けます。<< 戻る 0785.01.01 年表