クシナガラ

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クシナガラについて

インド北部のヒマラヤ山脈とデカン高原に挟まれた場所にガンガーの流れる広大なヒンドゥスタン平原があり、そこにウッタル・プラデーシュ州(UP州)があります。この州はインド最大の人口を持ち、古くから農村地帯が広がり、稲作と畑作の混合地が多く、サトウキビや小麦などが作られてきた地域です。そんな農村地帯にクシナガラという町があります。(はじめの写真は2000年2月15日・涅槃の日に撮影)私がその場所に初めて行ったのが2000年2月でした。インドは年中暑いところだと思っていたので、意外と朝晩が寒くて驚いたのを憶えています。その後、この場所を何度も訪れることになるとは思ってもいないことでした。クシナガラへは...
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涅槃会(ねはんえ)

2月15日はブッダが涅槃に入られた日。涅槃会(ねはんえ)です。約2500年前、北インドを中心に教えを説いて歩き、多くの人々を救ったブッダはクシナガラの沙羅双樹の間で涅槃に入りました。今でもクシナガラは仏教の聖地に変わりありません。機会があれば行ってみてください。田舎町ですが、心が安らぐ場所です。まさしく涅槃の地であります。ちなみに日本では地方により、涅槃会の行事を旧暦に合わせて3月15日にする場合もあります。<< 戻る
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涅槃像(ねはんぞう)- クシナガラ

ブッダ入滅の地・クシナガラにある涅槃堂の涅槃像は足のつま先がずれています。これは入滅した(亡くなった)姿を表しているのです。その時80歳、悟りを得た後の45年の伝道の旅を終えた姿です。また、つま先が揃っているものは最後の説法をしている涅槃像です。(2001年撮影)(2017年8月撮影/邪魔な!?フェンスができています)この涅槃像は5世紀のクマラグプタ朝時代にハリバラという信者が寄進したものをマトゥラーからクシナガラへ運んできたものです。この時代、王をはじめとする仏教の信者はクシナガラに僧院や礼拝堂を建て、仏教は保護されていました。涅槃像の足の裏<< 戻る
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涅槃堂(ねはんどう)- ニルヴァーナテンプル

涅槃堂(Nirvana Temple)はクシナガラにあるブッダ入滅の象徴とされている建物です。世界各国から仏教聖地の巡礼に訪れる人、遠足で訪れる学生、ブッダをヒンドゥの神としてお参りする人等、目的は違っても多くの参拝者がいます。朝には涅槃堂の周りで坐禅・瞑想する人もいますし、6時過ぎから各国の僧侶が順番(決まりはないようです)にお経を唱えていきます。涅槃堂の内部はとても響きが良く気分が良くなります。本尊は涅槃像、境内には沙羅双樹(さらそうじゅ)があり、かつてインドで仏教が盛んであった頃の僧院跡が残されています。ただし、当時の仏教寺院の多くは木造であり、残っているものは土台だけです。このいくつか...
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仏舎利(ぶっしゃり)- ブッダの遺骨の分配

仏舎利とは、お釈迦様(ブッダ)がクシナガラで入滅し荼毘(だび)に付された際の遺骨のことです。また、その際に出た灰をも含まれる場合があります。舎利は梵語ではシャリーラといい「遺骨」「遺体」「肉体」を意味します。荼毘に付された後、その遺骨を分けて欲しいと7種族が申し出ました。しかし、クシナガラに住むマッラ族は「我々の住む土地でブッダはお亡くなりになられたのだから、一部分をも分け与えない」と言いました。それに対して、ドーナ・バラモン(コーリヤ族)が次のようなことを言いました。「我らのブッダは耐え忍ぶことを説くかたでありました。最上の人の遺骨を分配する為に争うのはよくありません。我らはともに喜び合って...
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投薬(とうやく)

投薬とは、病気や症状に応じて薬を与えることで「患者に投薬する」というような使われ方をします。しかし、その語源が仏教によること、さらにはお釈迦様の涅槃に関することだと知っていますか?今回は、その詳細をまとめていこうと思います。お釈迦様は最後の旅の途中で病気になり、クシナガラの沙羅双樹の間に横になり、今まさに涅槃に入ろうとしていることをお釈迦様がルンビニで誕生して7日後に亡くなった生母・摩耶夫人が天界で知ります。摩耶夫人は、お釈迦様がもっと長く多くの人にその教えを説いてほしいとの願いから、長寿の薬を与えようと急いでその場所まで行き、お釈迦様が沙羅双樹の間に横になっている枕元を目がけて薬を投げました...
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ブッダ最後の旅【 第4章 】16、鍛冶工チュンダ

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ブッダ最後の旅【 第5章 】18、病い重し

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スッタニパータ【第5 彼岸にいたる道の章】1、序

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沙羅双樹(さらそうじゅ)

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり  沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす奢れる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し  猛き人もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ平家物語はこのような一節から始まるので、沙羅双樹という名前を知っている人が老若男女問わずいるようです。この沙羅双樹は、歴史上のブッダが入滅された場所に対で生えていたサーラの木のことです。インド原産の熱帯樹(フタバガキ科常緑樹)ですから日本では育ちません。日本で沙羅双樹と言われているものは白い花が夏の前頃に咲く夏椿(ツバキ科落葉樹)のことです。掲載画像はブッダ入滅の地、インド・クシナガラの涅槃堂前に植えている沙羅双樹です。伝...
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お釈迦様がクシナガラで入滅

紀元前485年2月15日(インド)仏教の開祖、お釈迦様(ゴータマ・シッダッタ)がクシナガラで入滅しました。(諸説あり。この年表では565年誕生説に基づいて以降の出来事を記述しています。)<< 戻る
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四大聖地(よんだいせいち)

ブッダの弟子アーナンダがブッダの死が近づいた時に問いました。「ブッダが亡くなったのちには、もう、ブッダにお会いすることはできないのでしょうか?」その問いにブッダが答えたのが四大聖地です。■ルンビニ(ブッダが生まれた地)藍毘尼■ブッダガヤ(ブッダが悟りを開いた地)仏陀伽邪■サールナート(ブッダが教えを説き始めた地)鹿野苑■クシナガラ(ブッダが亡くなった地)拘尸那掲羅これらの四つの場所が、信仰心ある者が実際に訪れて見て感動する場所であると、ブッダがアーナンダに伝えたのでした。(出典:『ブッダ最後の旅』【 第5章 】18、病い重し 8偈)<< 戻る
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八大聖地(はちだいせいち)

ブッダの弟子アーナンダがブッダの死が近づいた時に聞いたのが四大聖地ですが、仏教の開祖であるブッダに関する重要な8つの聖地の総称を八大聖地と呼びます。なお、ルンビニ、ブッダガヤー、サールナート、クシナガラは四大聖地と呼ばれています。■ルンビニ  ブッダが生まれた地(生誕)藍毘尼■ブッダガヤ  ブッダが悟りを開いた地(成道)仏陀伽邪■サールナート  ブッダが教えを説き始めた地(初転法輪)鹿野苑■ラージギル  ブッダ布教の地 王舎城■サヘート・マヘート  ブッダ布教の地 祇園精舎・舎衛城■サンカーシャ  ブッダ三道宝階降下の地 僧伽舎■ヴァイシャリ  ブッダ最後の旅の出発地 毘舎離■クシナガラ  ブ...
人物

チュンダ(純陀)- ブッダ最後の食事を提供

チュンダとは、鍛治屋(かじや)・工巧師(こうこうし)の子で、ブッダ最後の食事を提供したことから、ブッダへの最後の布施者とも呼ばれています。漢訳では純陀、准陀、淳陀、周那などと音写され、妙義と意訳されることもあります。チュンダはブッダやその弟子たちを招待することが出来るほどの富裕層であったと考えられています。当時、インドのカースト社会では鍛治屋、工巧師、金属加工師というのは賤しい職業と見なされ、蔑視されていましたが、ブッダのような新しい精神的な指導者を求めていました。鍛治屋の子チュンダの招待を受け入れたブッダは、当時の階級的差別を打ち破って欲しいという要求に応えたものであったと考えられます。『大...