平安時代

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吉田寺-奈良県生駒郡

・吉田寺 浄土宗 奈良県生駒郡斑鳩町大字小吉田1-1-23吉田寺の創建は古く、天智天皇の勅願によると伝えられ、本堂西側には妹君・間人内親王の御陵と伝えられる清水の古墳がある。その後、平安時代末期、永延元年(987年)に恵心僧都源信が開基された。(リンク先より) << 戻る
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満福寺-岐阜県大垣市

・満福寺 真宗大谷派 岐阜県大垣市墨俣町墨俣131寛和の頃(986年)天台宗の伽藍として創建されたが、熊谷蓮生房の猶子、小太郎直照・祐照法師が浄土真宗の宗祖親鸞聖人に帰依してより、嘉禎元年(1235年)葉栗郡門間の庄足近に金足山・満福寺と号した。(リンク先より) << 戻る
人物

良源(りょうげん)- 元三大師

平安時代の天台宗の僧。 諡号は慈恵大師(じえだいし)。通称の元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。 第18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。生誕 延喜12年9月3日(912年10月15日)命日 永観3年1月3日(985年1月26日)<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

『往生要集』(おうじょうようしゅう)

平安時代の中ごろにあたる985年、源信(げんしん)(恵心僧都・えしんそうず)の書いた1部3巻からなる仏教書。極楽浄土のすばらしさと念仏往生(ねんぶつおうじょう)の方法をのべたものです。この教えは、末法思想(まっぽうしそう)の流行とあいまって、貴族をはじめ、多くの人々の間に広まりました。後の時代、法然や親鸞などにあたえた影響が大きいです。死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎をつくりました。また、地獄・極楽の観念、厭離穢土・欣求浄土の精神は、貴族・庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えました。一方、易行とも言える称名念仏とは別に、瞑...
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應昌寺-群馬県前橋市

・應昌寺 天台宗 群馬県前橋市河原浜町1020應昌寺(おうしょうじ)は西暦975年、日本の元号では天延3年に天台宗の僧、慈恵大師良源によって開山された。元は現在より西方の河川付近に建立された寺院だが、度重なる河川の氾濫により現在の位置に建て直された。(リンク先より) << 戻る
人物

空也(くうや)

空也とは、平安時代中期の僧侶。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称されます。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者として、空也流の念仏勧進聖は鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされています。空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されませんでした。踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれますが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はないといわれています。門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えたといわれています。空也を現した彫像のうち、重要文化財として国が指定し...
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弘行寺-千葉県長生郡

・長生不動尊 弘行寺 天台宗 千葉県長生郡睦沢町下之郷1875971年(天禄二年)寺史によると十八代天台座主慈恵大師良源(元三大師)によって創建当初は浅間山付近(玉垣神社向かい)に堂宇が建立され、如願寺(女元寺)と称す(浅間山は古墳群として知られ宝剣類、変形獣形鏡、三輪玉、和泉期の高杯などが出土。年代は5世紀後半から6世紀後半)古文書に「女元寺村の祈禱所にて滅罪一人もなき寺」とあり(リンク先より) << 戻る
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禅林寺-愛知県一宮市

・禅林寺 曹洞宗 愛知県一宮市大字浅野字前林12禅林寺は、天禄元年(970年)に尾張公藤原実頼の追福のため、薬師如来を勧進し、小野院極楽寺と号したのが始まりです。その後、大永五年(1525年)に曹洞宗に改宗し、天保五年(1648年)に仙境山禅林寺と改めて現在に至ります。(リンク先より) << 戻る
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蓮蔵寺-三重県津市

・蓮蔵寺 天台真盛宗 三重県津市戸木町2078この寺は凡そ1040年余り前、応和3年(963)慈恵大師の創建と伝えられています。その後寛和2年(986)恵心僧都によって念仏道場として再建されました。延徳元年((1489)に真盛上人が恵心僧都の跡を継ぎ、法灯をかかげて不断念仏を再興し、円頓の妙戒を授け、「十方有信の四衆雲の如く集ひて財を投じ、堂舎を造立す」と記されています。(リンク先より) << 戻る
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願乘寺-滋賀県彦根市

・願乘寺 浄土真宗本願寺派 滋賀県彦根市錦町3-23天暦10年(956年)坂田郡荘厳寺村において、天台宗護念院願乘寺として、了覚が創立しました。その後12代を経て、13代了善が、柏原駅にて親鸞聖人の教化を蒙り浄土真宗に転派しました。(リンク先より) << 戻る
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六波羅蜜寺-京都府京都市東山区

・六波羅蜜寺 真言宗智山派 京都府京都市東山区松原通大和大路東入二丁目轆轤町・第十六番 ⇒ 西国三十三所 第十七番 補陀洛山 六波羅蜜寺 ⇒ 第十八番六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。 当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963...
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本願寺-栃木県佐野市

・本願寺 曹洞宗 栃木県佐野市赤見町4821天慶8年(944年)、赤見村駒場坪字宮合山ふもと東ノ沢に面積2反1畝10歩の官有地があり、この境内地に藤原忠則公の帰依と宝徳比丘尊により、東西20間・南北21間の堂宇が建設され「本願庵」と称したのが、当山の開基始祖であり、後々法統脈々として相承してきた。応永元年(1394年)山火事により450年の庵は焼失した。(リンク先より) << 戻る
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正暦寺-京都府綾部市

・正暦寺 高野山真言宗 京都府綾部市寺町45天慶5年(942)に空也上人が観音様を彫られお祀りしたのがそもそもの始まりとされ、寺号は正暦2年(991)、雨乞祈願の効験によって一条天皇より当時の年号が賜与されたものです。歴代綾部藩主も当寺を祈願寺として厚く外護したと伝えられています。(リンク先より) << 戻る
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広渡寺-静岡県田方郡

・広渡寺 浄土宗 静岡県田方郡函南町間宮193開基 義延上人(ぎえんしょうにん)。石箏阿闍梨(せきそうあじゃり)と称し、下野国(しもつけのくに、今の栃木県)の豪 藤原文信の子にして、父文信の志願に依り、同国薬師寺の願得上人の門弟となる。石箏阿闍梨は、たびたび薬師の霊告を受け、天慶3年(940年)当国に来り、有縁の霊地を求め、一宇を草創して大蓮寺と称す。(リンク先より) << 戻る
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廬山寺-京都府京都市上京区

・廬山寺 円浄宗 京都府京都市上京区寺町通広小路上る北ノ辺町397比叡山天台18世座主元三大師良源によって天慶年中(938年~947年)に船岡山の南に創建されました。寛元3年(1245年)に法然の弟子である覚瑜が船岡山の南麓に再興、中国の廬山にならって蓮社を結び道俗貴賎が群集し、廬山天台講寺と号しました。(リンク先より) また、廬山寺で執り行われるストーリー仕立ての追儺式(ついなしき)の鬼法楽(おにほうらく)は、通称、鬼おどりと呼ばれ、京都を代表する節分行事として、多くの雑誌やTVに取り上げられています。<< 戻る
年表

藤原純友の乱

935年、藤原純友の乱。<< 戻る
年表

紀貫之が「土佐日記」を著す

935年、このころ、紀貫之が「土佐日記」を著す。<< 戻る
年表

武士の起こり

935年、このころ、各地の政治が乱れて武士が起こる。<< 戻る
年表

平将門の乱

935年、平将門の乱。<< 戻る
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大安楽寺-長野県松本市

・大安楽寺 真言宗智山派 長野県松本市女鳥羽2-5-8大安楽寺は延長2年(924年)一条修理太夫が当地におもむき、庶民の福祉を念じ大護摩祈願を厳修、現在の御徒士町に安原山「安楽寺」と称し行基菩薩により開山されました。 後に永正元年(1504年)島立右近が松本城建築に際し、東北東鬼門の方角に当る松本城鬼門除守護の霊刹とし七堂伽藍を再建しました。(リンク先より)<< 戻る
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法泉寺-愛媛県新居浜市

・法泉寺 高野山真言宗 愛媛県新居浜市垣生4-9-12法泉寺の創立年代と創立者等は不詳なれど延長年間(923~931)宇高古土居(富留土居)城主の菩堤所として開創されたとつたえられている。(リンク先より) << 戻る
仏教を本気で学ぶ

弘法大師の諡号を賜わる

延喜21(921)年、空海上人は醍醐天皇から弘法大師の諡号(しごう)を賜わる。東寺と金剛峯寺座主を兼務する観賢は、朝廷に働きかけて空海上人への弘法大師号宣下を実現させました。ですから、空海上人が「弘法大師」と呼ばれるようになったのはこれ以降です。 観賢は、諡号宣下の勅書と醍醐天皇の賜衣を奉じて高野山に乗り込み、大師号の報告会を行いました。『日本紀略』には、観賢が報告のため奥の院の廟所を開けたところ、空海の顔色は生前のままだったと記されています。この話が伝わり、空海は実は亡くなって荼毘に付されたわけではなく、御廟の中で「入定(にゅうじょう)」していると信じられるようになりました。 入定とは、生死...
仏教を本気で学ぶ

観賢、東寺と金剛峯寺座主を兼務

延喜十九年(919年)、観賢(八五四~九二五年)、東寺と金剛峯寺座主を兼務する。空海上人が入滅後、金剛峯寺(高野山)や東寺、高雄山寺(神護寺)などの真言宗諸寺はそれぞれ独立した寺院としての道を歩み始めました。やがて、金剛峯寺と東寺のどちらを本寺とするかという論争が起きます(本末争い)。 そこで、観賢が東寺と金剛峯寺座主を兼務し、東寺を本寺、金剛峯寺を末寺と決めたことで決着し、金剛峯寺は本末争いに負けた形となりました。 << 戻る
人物

相応和尚(そうおうかしょう)

相応和尚は近江国浅井郡の出身で、孝昭天皇の第一皇子天帯彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の子孫と伝えられています。15歳の時、鎮操(ちんそう)大徳に随って比叡山に登り17歳で剃髪し沙弥になりました。その後、法華経常不軽品によって大菩提心を発し、六、七年間一日も欠かさず根本中堂に花を供え続けていました。その信心堅固な青年僧を見いだし、年分度者(ねんぶんどしゃ)として得度せしめたのは慈覚大師円仁大徳でした。大師は大納言藤原良相(よしみ)からの度者の推薦依頼もあり、良相の一字を取って「相応(そうおう)」と名付けられました。比叡山の回峯行は、役小角(えんのおづぬ)を開祖とする南山修験に対...
仏教を本気で学ぶ

モンゴル系の契丹族(きったんぞく)が,満州や中国北部を支配した国(916〜1125)。渤海(ぼっかい)を滅ぼし、唐の滅亡に乗じて華北にも進入。契丹文字をつくるなど民族の独自性をたもつようにしながら、領土内の農耕民の社会にあわせた支配しはいをした。また仏教もさかんだった。宋とむすんだ女真族(じょしんぞく)の金にほろぼされた。<< 戻る
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天龍寺-埼玉県飯能市

・子ノ権現天龍寺 公式サイト 天台宗 埼玉県飯能市南461当山は、延喜十一年(九一一)六月十三日、子ノ聖が初めてこの地に十一面観音をお祀りし、天龍寺を創建されたことに始まります。その後、弟子の恵聖上人が子ノ聖を大権現と崇め、子ノ聖大権現社を建立されました。 (リンク先より) << 戻る
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篠生寺-石川県加賀市

・篠生寺 浄土真宗本願寺派 石川県加賀市動橋町イ-69延喜9年(909) 真言宗生龍山地蔵院建立永延2年(988) 花山法皇が那谷寺建立にあたっての安在所(御座所)とする一条天皇も安在所(御座所)とする(リンク先より) << 戻る
年表

古今和歌集ができる

905年、古今和歌集ができる。紀貫之らによる編さん。最初の勅撰和歌集。<< 戻る
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金剛院-兵庫県伊丹市

延喜4年(904年)宇多法皇の勅願所として山城醍醐寺の聖宝理源大師が薬師如来を本尊に開基、当初善楽寺といい別院を金剛院と称したといわれます。その後、兵乱で廃れました。久安6年(1150年)、源為朝が当寺に宿を取り、牛頭天王の霊夢によって寺社を再興したと言われています。天正7年(1579年)、荒木村重の乱で炎上しましたが、文禄年間(1592年~1596年)、千僧村願成就寺(現安楽院)の地蔵院長照が入寺し中興しました。 文禄3年(1594年)、片桐且元の検地で除地となります。寛文11年(1671年)、京都御室仁和寺の末寺となりました。貞享2年(1685年)、『摂津名所図会』によると近衛基熙が再建し...
人物

菅原道真(すがわらのみちざね)

平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐天皇のもとでは右大臣にまで昇りつめます。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没しました。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となり、現在は学問の神として親しまれています。一方、菅原道真の家族は仏教信者であり、母は命の危険があった幼い息子・道真の命を救うために観音像の造立を発願(ほつがん)します。それを果たせずに亡くなった母の遺志を継ぎ、その費用を工面するため節約して...
年表

荘園の大整理

902年、荘園の大整理をする。 << 戻る
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如意輪寺-奈良県吉野郡

・如意輪寺 浄土宗 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山1024当山は、延喜年間(901-923)三好善行の弟で醍醐天皇の御帰依を被った日蔵道賢上人により真言宗のお寺として建立されました。そして、後醍醐天皇が吉野に行宮を構えた際に、後醍醐天皇の勅願寺と定められ南朝(吉野朝)勅願寺ともなりました。(リンク先より) << 戻る