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水原弘(みずはらひろし)

歌手・俳優。愛称は「おミズ」。生誕 1935年(昭和10年)11月1日命日 1978年(昭和53年)7月5日玅音院釋正弘居士<< 戻る
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三宅大輔(みやけだいすけ)

東京都出身の野球選手・プロ野球監督。大日本東京野球倶楽部初代監督。生誕 1893年4月16日命日 1978年1月3日<< 戻る
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三島海雲(みしまかいうん)- カルピスの誕生

明治・大正・昭和時代の実業家。特にカルピス株式会社の創業者として著名。三島海雲は、現在の大阪府箕面市にある教学寺の三島法城の長男として生まれました。西本願寺文学寮で学んだ後、英語の教師になった海雲は、仏教大学(現在の龍谷大学)に編入しましたが、入学後間もなくの1902(明治35)年、大学からのすすめもあり中国へ渡ります。1905(明治38)年から雑貨商の事業を手がけるようになり、ある時、内モンゴルの地を訪れました。長旅の疲れですっかり胃腸が弱り、体調を崩していましたが、酸乳や馬乳酒といった乳酸菌を用いた飲料を飲んでいるうちに胃腸の調子が良くなり、体調も回復したといいます。1915(大正4)年、...
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三島由紀夫(みしまゆきお)

小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。血液型はA型、身長は163cm。本名は平岡公威(ひらおか きみたけ)。戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家です。代表作 『仮面の告白』(1949年)『潮騒』(1954年)『近代能楽集』(1956年)『金閣寺』(1956年)『鹿鳴館』(1956年)『鏡子の家』(1959年)『憂国』(1961年)『サド侯爵夫人』(1965年)『豊饒の海』(1965年-1970年)生誕 1925年〈大正14年〉1月14日命日 1970年〈昭和45年〉11月25日彰武...
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三好達治(みよしたつじ)

大阪府大阪市出身の詩人、翻訳家、文芸評論家。日蓮宗本山本満寺貫首を務めた三好龍紳は実弟。代表作『測量船』(1930年)、『駱駝の瘤にまたがつて』(1952年)など多数。生誕 1900年(明治33年)8月23日命日 1964年(昭和39年)4月5日法治院平安日達居士<< 戻る
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南方熊楠(みなかたくまぐす)

博物学者、生物学者、民俗学者。 生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集もおこなっていた。そうした調査に基づいて生態学を早くから日本に導入したことが注目される。生誕 1867年5月18日(慶応3年4月15日)命日 1941年(昭和16年)12月29日智荘厳院鑁覚顕真居士<< 戻る
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宮沢賢治(みやざわけんじ)

詩人、童話作家。 仏教信仰と農民生活に根ざした創作を行った。作品中に登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとしてイーハトーブと名付けたことで知られる。代表作『注文の多い料理店』(1924年)「雨ニモマケズ」(1931年)「銀河鉄道の夜」(未定稿)『風の又三郎』(1934年)生誕 1896年(明治29年)8月27日命日 1933年(昭和8年)9月21日真金院三不日賢善男子<< 戻る
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水野忠邦(みずのただくに)

江戸時代後期の大名、老中。肥前国唐津藩主、のち遠江国浜松藩主。1841年から天保の改革を行ったことで著名。生誕 寛政6年6月23日(1794年7月19日)命日 嘉永4年2月10日(1851年3月12日)英烈院忠亮孝友大居士<< 戻る
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三井高利(みついたかとし)

江戸時代の商人である。通称は八郎兵衛。三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。三井中興の祖と言われる。「現金掛け値なし」で呉服の廉価販売を始め、また呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆して切り売りをし、庶民の大人気となった。生誕 元和8年(1622年)命日 元禄7年5月6日(1694年5月29日)松樹院長誉宗寿居士<< 戻る
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宮本武蔵(みやもとむさし)

江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。 京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名で、後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。特に吉川英治の小説が有名であるが史実と異なった創作が多いことに注意する必要がある。外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載がある。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。生誕 天正12年(1584年)命...
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妙心寺派(本山妙心寺(京都))の開派

南朝:延元2・北朝:建武4(1337)年、関山恵玄禅師により始まる。末寺3400ケ寺を持つ臨済宗最大の宗派。臨済宗妙心寺派(楊岐派の禅)。<< 戻る
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「正法眼蔵」蜜語(みつご)

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明恵(みょうえ)

鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される。明恵は『大唐天竺里程記』(だいとうてんじくりていき)をつくり、天竺(インド)へ渡って仏跡を巡礼しようと企画したが、春日明神の神託のため、これを断念した。明恵はまた、これに先だつ建仁2年(1202年)にもインドに渡ろうとしたが、このときは病気のため断念している。遁世僧となった明恵は、建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開山し、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行に励み、戒律を重んじ...
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源頼朝(みなもとのよりとも)

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家。鎌倉幕府の初代征夷大将軍。 清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。生誕 久安3年4月8日(ユリウス暦1147年5月9日、先発グレゴリオ暦1147年5月16日)命日 建久10年1月13日(ユリウ...
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源義経(みなもとのよしつね)

源義経は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った...
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源義仲(みなもとのよしなか)

平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。生誕 久寿元年(1154年)命日 寿永3年1月20日(1184年3月4日)徳音院義山宣公<< 戻る
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不如蜜多(ふにょみった)

婆舎斯多に就いて嗣法。弟子には般若多羅がいる。生誕 命日 << 戻る
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『法句経』ダンマパダ【 第20章 道 】

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仏教を本気で学ぶ

『法句経』ダンマパダ【 第19章 道を実践する人 】

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仏教を本気で学ぶ

スッタニパータ【第3 大いなる章】3、みごとに説かれたこと

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伏駄蜜多(ふだみった)

インドの仏教僧。仏陀難提に就いて嗣法。弟子には婆栗湿縛がいる。生誕 命日 << 戻る
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婆須蜜多(ばしゅみった)

インドの仏教僧。弥遮迦に就いて嗣法。弟子には仏陀難提がいる。生誕 命日 << 戻る
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弥遮迦(みしゃか)

インドの仏教僧。提多迦に就いて嗣法。弟子には婆須蜜多がいる。生誕 命日 << 戻る
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ミリンダ王の問い

紀元前2世紀後半にアフガニスタン・インド北部を支配したギリシャ人であるインド・グリーク朝の王メナンドロス1世(ミリンダ王/弥蘭王/弥蘭陀王)とインド仏教の長老であるナーガセーナ(那先/那伽犀那/龍軍)との間で紀元前160年頃に3日間行われた問答で、王は最後には仏教信者になる。パーリ語経典の『ミリンダ王の問い』、漢語経典の『那先比丘経』として伝えられている。初日はミリンダ王がナーガセーナを訪ね、2日目と3日目はナーガセーナが王宮を訪ね問答を行う。初日の問答の始まりはこんな感じです。あなたの名前を教えてください王よ、私はナーガセーナと世間に呼ばれているけど、それはあくまでも呼称・記号・通念・名称で...