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松田優作(まつだゆうさく)

山口県下関市生まれの俳優、歌手。73年NTV「太陽にほえろ!」でジーパン刑事を演じてデビュー。同年、『狼の紋章』で映画デビュー。 74年『竜馬暗殺』、76年「暴力教室」、77年『人間の証明』などに出演、78年には『最も危険な遊戯』で村川透監督と初めてコンビを組み、以降『遊戯』シリーズや、大藪春彦原作角川映画『蘇える金狼』(79)『野獣死すべし』(80)と数々のハードボイルドアクションの傑作を発表し、ヒットを連発していく。生誕 1949年(昭和24年)9月21日命日 1989年(平成元年)11月6日天心院釋優道<< 戻る
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松下幸之助(まつしたこうのすけ)

実業家、発明家、著述家。 パナソニックを一代で築き上げた経営者である。異名は「経営の神様」。 その他、PHP研究所を設立して倫理教育や出版活動に乗り出した。さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ。「人と比較をして劣っているといっても、決して恥ずることではない。けれども、去年の自分と今年の自分とを比較して、もしも今年が劣っているとしたら、それこそ恥ずべきことである」「志を立てるのに、老いも若きもない。そして志あるところ、老いも若きも道は必ず開けるのである」生誕 1894年11月27日命日 1989年4月27日光雲院釋眞幸<< 戻る
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増谷文雄(ますたにふみお)

仏教学者、翻訳家。福岡県小倉市(現・北九州市小倉)生まれ。原始仏教関係では博士論文「アーガマ資料による佛伝の研究」、著書「根本仏教の研究」等、親鸞や道元研究で「正法眼蔵」訳注が著名。著訳書は新装版での再刊も含めると約80冊以上出されている。戦前に数冊、オックスフォード大学の宗教学者エストリン・カーペンター(Estlin Joseph Carpenter 1844~1927)を訳し、早くから宗教思想史・比較宗教学からの仏教論考・仏伝を著している。NHKラジオ等で講義や、講演を積極的に行っていた。生誕 1902年2月16日命日 1987年12月6日<< 戻る
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松本白鸚(初代)(まつもとはくおう)

初代 松本白鸚は、日本の歌舞伎役者。屋号は高麗屋、定紋は、四つ花菱、替紋は浮線蝶。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。生誕 1910年(明治43年)7月7日命日 1982年(昭和57年)1月11日松桂院白鸚日順大居士<< 戻る
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松本清(まつもときよし)

千葉県東葛飾郡湖北村(現・我孫子市)出身の実業家、地方政治家。ドラッグストアチェーン日本最大手の「マツモトキヨシ」の創業者。第9代松戸市長在任中の1969年(昭和44年)10月6日に「市役所は『市民に役立つ・役に立つ人がいる所』」を標語に、お役所仕事の打破と市民サービスの向上を目的に、日本初の即応部門『すぐやる課』を松戸市役所に設置し、全国的に報道された。生誕 1909年(明治42年)4月24日命日 1973年(昭和48年)5月21日<< 戻る
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松林桂月(まつばやしけいげつ)

画家。山口県萩市生まれ。元の姓は伊藤、本名は篤。字は子敬。別号に香外、玉江漁人。妻の松林雪貞も日本画家。《春宵花影》東京国立近代美術館蔵/《愛吾廬》山口県立美術館蔵など多数。生誕 1876年8月18日命日 1963年5月22日豪徳院殿彩譽松林桂月大居士<< 戻る
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牧野富太郎(まきのとみたろう)

植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。幼少のころから植物に興味を示し、10歳より寺子屋、さらに塾で学び、その後12歳で小学校へも入学したものの2年で中退し、好きな植物採集にあけくれる生活を送るようになる。地元の学校の教師などから英語を学び、植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。生誕 1862年5月22日(文久2年4月24日)命日 1957...
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マハトマ・ガンディー

インドのグジャラート出身の弁護士、宗教家、政治指導者である。インド独立の父。「マハートマー」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされるガンディーの尊称である。生誕 1869年10月2日命日 1948年1月30日<< 戻る
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前島密(まえじまひそか)

官僚、政治家。本姓は上野。通称は来輔。号は如々山翁鴻爪。日本の近代郵便制度の創設者の一人であり、その功績から「郵便制度の父」と呼ばれる。今日も使われる「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めたほか、1円切手の肖像で知られる。生誕 天保6年1月7日(1835年2月4日)命日 大正8年(1919年)4月27日(墓所、浄楽寺)<< 戻る
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正岡子規(まさおかしき)

俳人、歌人、国語学研究家。名は常規。幼名は処之助で、のちに升と改めた。 俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人であった。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。生誕 1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉命日 1902年〈明治35年〉9月19日子規居士<< 戻る
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松平容保(まつだいらかたもり)

幕末の大名。陸奥国会津藩9代藩主。京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。生誕 天保6年12月29日(1836年2月15日)命日 明治26年12月5日(1893年12月5日)<< 戻る
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松平春嶽(まつだいらしゅんがく)- 慶永(よしなが)

幕末から明治初期にかけての大名、政治家。越前国福井藩16代藩主。春嶽は号で、諱は慶永である。他に礫川、鴎渚などの号を用いたが、生涯通して春嶽の号を最も愛用した。田安徳川家3代当主・徳川斉匡の八男。松平斉善の養子。将軍・徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末四賢侯の一人と謳われていた。生誕 文政11年9月2日(1828年10月10日)命日 明治23年(1890年)6月2日諦観院廓誉超勝常然大居士<< 戻る
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松浦武四郎(まつうらたけしろう)

江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家・浮世絵師・著述家・好古家。名前の表記は竹四郎とも。諱は弘。「北海道」の名前は松浦武四郎の発案とされている。生誕 文化15年2月6日(1818年3月12日)命日 明治21年(1888年)2月10日教光院釈遍照北海居士<< 戻る
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間宮林蔵(まみやりんぞう)

江戸時代後期の徳川将軍家御庭番、探検家。 名は倫宗(ともむね)。 元武家の帰農した農民出身であり、幕府で御庭番を務めた役人であった。樺太(からふと)が島である事を確認し間宮海峡を発見した事で知られる。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。北海道から樺太、千島列島(ちしまれっとう)で20年以上生活した。生誕 安永9年(1780年)、または、安永4年(1775年)命日 天保15年2月26日(1844年4月13日)顕実院宗円日成大居士<< 戻る
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松平定信(まつだいらさだのぶ)

江戸時代中期の大名、老中。陸奥国白河藩3代藩主。定綱系久松松平家9代当主。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。1787年から1793年まで寛政の改革を行った。定信は田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばしば言われるが、しかし近年では田沼政権との連続面があったことも重視される。生誕 宝暦8年12月27日(1759年1月25日)命日 文政12年5月13日(1829年6月14日)守国院殿崇蓮社天誉保徳楽翁大居士<< 戻る
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円山応挙(まるやまおうきょ)

江戸時代中期~後期の絵師。 近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。 諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。生誕 享保18年5月1日(1733年6月12日)命日 寛政7年7月17日(1795年8月31日)<< 戻る
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松尾芭蕉(まつおばしょう)

江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房。俳号としては初め宗房を、次いで桃青、芭蕉と改めた。北村季吟門下。伊賀上野(現:三重県上野市赤坂町)の下級武士松尾与左衛門の次男として生を受ける。幼名金作、長じて甚七郎または忠左衛門。兄姉が一人ずつ、妹が三人の六人兄弟。元来、松尾家は伊賀国柘植郡に代々住した平家末流の土豪、柘植七族の支流である。父は伊賀藤堂家の無足人として伊賀上野に来住、手習師匠などを生業としていた。若き日を藤堂良忠に仕える。良忠は北村季吟の教えを受ける俳人であり、そこから俳諧への目を開いていったと思われる。処女発句集『貝おほひ』で...
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前田利次(まえだとしつぐ)

越中富山藩の初代藩主。 生涯. 元和3年(1617年)4月29日、加賀藩主・前田利常の次男として金沢で生まれる。寛永8年(1631年)に元服し、従四位下、侍従に叙任された。生誕 元和3年4月29日(1617年6月2日)命日 延宝2年7月7日(1674年8月8日)竜光院殿瑞巌良祥大居士<< 戻る
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前田利常(まえだとしつね)

安土桃山時代末期から江戸時代初期の武将・大名。加賀藩の第2代藩主。加賀前田家3代。父・前田利家の特長を受け継いだ立派な体格の持ち主であり、その点が数多くいる利家の子供たちから利長の後継に選ばれる決め手となったという。家康の遺言などから家康は利常にかつてのライバルだった利家を見出して警戒していたとされ、幕府からは「底の知れぬ人」と警戒されていたとされる。金工師の後藤顕乗(下後藤)や後藤覚乗(上後藤)、蒔絵師の五十嵐道甫や清水九兵衛など、京都や江戸から優れた一流の名工たちを高禄で召し抱え、藩内の美術工芸の振興に努めた。生誕 文禄2年11月25日(1594年1月16日)命日 万治元年10月12日(1...
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前田利長(まえだとしなが)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男。初名は利勝、天正17年頃に利長と改名した。 若年より織田信長・豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉の死後から江戸幕府成立に至る難局を苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。生誕 永禄5年1月12日(1562年2月15日)命日 慶長19年5月20日(1614年6月27日)瑞龍院殿聖山英賢大居士<< 戻る
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前田利家(まえだとしいえ)

前田利家は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。俗に加賀百万石の祖とも称されるが、前田家が百万石を超えるのは利長・利常ら利家の息子たちの世代からである。生誕 天文7年12月25日(1539年1月15日)命日 慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)高徳院殿桃雲浄見大居士<< 戻る
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松平信康(まつだいらのぶやす)- 徳川信康(とくがわのぶやす)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男。母は関口親永の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を譲られた。7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る。元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となる。天正元年(1573年)に初陣する。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは徳川軍の一手の大将として参加し、その後も武田氏との戦いでいくつもの...
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満済(まんさい)- 『満済准后日記』(まんさいじゅごうにっき)

満済とは、南北朝時代から室町時代中期にかけての醍醐寺の僧侶。僧としては破格の准三后を授かったことから、満済准后、法身院准后、三宝院満済としても知られます。安土桃山時代の義演准后と並んで醍醐寺中興の祖として知られます。また、具注暦の裏にその日の出来事を記録しておいた『満済准后日記』(『法身院准后記』)で、応永18年(1411年)から入滅の年までの記事があり、自筆本も伝わり(現在は醍醐寺と国立国会図書館蔵。共に、重要文化財)、当時の政治情勢が克明に記録していることから、室町時代の極めて重要な史料となっています。父は関白二条兼基の子・良冬を始祖とする従一位・権大納言今小路基冬。母は聖護院房官法印源意...
仏教を本気で学ぶ

松葉ヶ谷法難

文応元(1260)年7月16日、前執権で幕府最高の実力者の北条時頼に日蓮聖人は『立正安国論』を送りました。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府の間違った信仰にあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼離などの災いが起こると説かれています。同年8月27日、『立正安国論』建白の40日後、他宗の僧ら数千人により、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされましたが難を逃れました。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

『典座教訓』13、まず心をこめて行ずること

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仏教を本気で学ぶ

「正法眼蔵」摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)

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松殿基房(まつどのもとふさ)- 藤原基房(ふじわらのもとふさ)

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原基房。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白。生誕 天養元年(1144年)/久安元年(1145年)命日 寛喜2年12月28日(1231年2月1日)菩提院松殿中山基房大居士<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

最初の万燈万華会

天長9(832)年8月22日、高野山において最初の万燈万華会(まんどうまんげえ)を修しました。萬燈萬華会(略して萬燈会)は、多くの灯明と多くの華を仏さまに供養し、人々の望みが叶うよう祈る法要です。例えば、突然の停電で暗くなると不安に襲われますが、懐中電灯をつけるとか、ロウソクに火を灯せば、ホッと安心するはずです。光のもたらすこうした効能から、灯明を物事の真実を見極める仏さまの智恵のシンボルとし、また我がいのちを燃やして周囲に幸せを及ぼす、仏さまの働きの象徴としました。 一方、自然の中に育つ草木は、厳しい気候の変化に耐え抜いて、美しい花を咲かせます。そこで花は、苦難に負けずに耐え抜く力(忍辱=に...
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麻浴宝徹(まよくほうてつ)

中国唐の時代の禅僧。馬祖道一に就いて嗣法。弟子には寿州良遂がいる。「正法眼蔵」現成公案より抜粋麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理を知らずと。いはく、いかならんかこれ無処不周底の道理。時に、師、あふぎをつかふのみなり。僧、礼拝す。・・・・・・・・生誕 命日 << 戻る
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ムハンマド/マホメット

イスラム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島中西部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。イスラム教では、モーセ、イエスその他に続く、最後にして最高の預言者でありかつ使徒とみなされている。また世俗君主・軍人として、アラビア半島にイスラム国家を打ち立てた。生誕 570年頃(メッカ)命日 632年6月8日(マディーナ)<< 戻る
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摩拏羅(まぬら)

世親/婆修盤頭に就いて嗣法。弟子には鶴勒那がいる。伝法の偈 心随万境転  心は万境に随って転ず転処実能幽  転処実に能く幽なり随流認得性  流れに随って性を認得すれば無喜亦無憂  喜びもなくまた憂いもなし生誕 命日 << 戻る
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『法句経』ダンマパダ【 第7章 真人 】

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