仏教を本気で学ぶ

『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)

『教行信証』とは、元仁元(1224)年頃に書かれた親鸞聖人の著作です。正式名称は『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)です。全6巻からなる浄土真宗の根本聖典です。法然上人が著した『選択本願念仏集』の解説書とその正しさを証明した文書とされています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・▶ 総序▶ 教巻▶ 行巻▶ 信巻▶ 証巻▶ 真仏土巻▶ 化身土巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・顕浄土真実教行証文類序 竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。 然れば則ち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて...
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投子義青(とうしぎせい)

宋時代の禅僧。浮山法遠の下で学び、代付により大陽警玄の法を受け嗣ぐ(嗣法)。大陽警玄とは直接会っていない。弟子には芙蓉道楷がいる。生誕 1032年命日 1083年<< 戻る
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葉県帰省(せっけんきせい)

中国・宋時代の禅僧。首山省念に就いて嗣法。弟子には浮山法遠がいる。葉県禅師の禅風を「厳冷枯淡」(げんれいこたん)と表します。生誕 命日 << 戻る
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大陽警玄(たいようきょうげん)

中国・五代十国時代~宋時代の禅僧。梁山縁観に就いて嗣法。その法を嗣げる弟子が現れなかったため浮山法遠(大陽警玄の下で学んでいたが、既に臨済宗の法を受け嗣いでいたため)に法を預け、後に代付により投子義青に法が伝わる。生誕 943年命日 1027年<< 戻る
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祈親上人定誉、高野山復興に着手

落雷からの火災で荒廃した高野山を再興したのは、法華経の持経者(聖)だった興福寺の定誉(958-1047)です。長和5年(1016年)、観音像のお告げで高野山に登った定誉は、冬の寒さを防ぐ方法を編み出し、僧侶たちを山内へ呼び戻すなど、金剛峯寺の復興につとめました。 << 戻る
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雪峰義存(せっぽうぎぞん)

中国唐末から五代十国時代の禅僧。泉州南安県の出身。諡は真覚大師。徳山宣鑑に就いて嗣法。弟子には玄沙師備、雲門文偃、長慶慧稜、鼓山神晏、保福従展など多数。『雪峰眞覺禪師語録』・修行時代に典座を志し、いつも飯杓子を持って歩いていたほどであったので、禅宗寺院の典座寮は、またの名を雪峯寮と呼ばれることがあります。・一人の雲水が徳山宣鑑に弟子入りしようとして渓流に添って上って行くと、上流から野菜の切れ端が流れて来たので、「一筋の野菜といえど粗末にするようなところはろくな道場ではあるまい」と思い山をおりかけると、一人の僧(雪峰義存)がこの流菜を追いかけて下ってきたことから、雲水は思い直して徳山宣鑑に入門し...
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臨済義玄(りんざいぎげん)

中国唐代の禅僧。諡は慧照禅師。曹州南華県の出身。黄檗希運に就いて嗣法。真定府臨済院。『臨済慧照禅師語録』黄檗三打の機縁で大悟する。・「慧照大師は、講経の家門をなげ捨てて、黄檗の門人となれり。黄檗の棒を喫すること三番、あはせて六十挂杖なり。大愚のところに参じて省悟せり。ちなみに鎭州臨済院に住せり。黄檗の心を究尽せずといへども、相承の仏法を臨済宗となづくべしといふ一句の道取なし、半句の道取なし。豎拳せず、拈払せず。」(「正法眼蔵」仏道)生誕 命日 咸通8年1月10日(867年2月18日)または、咸通7年4月10日(866年5月27日)<< 戻る
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黄檗希運(おうばくきうん)

中国唐代の禅僧。諡は断際禅師。福州閩県の出身。百丈懐海に就いて嗣法。弟子には 臨済義玄、裴休がいる。黄檗山黄檗寺を開創。『黄檗希運禅師伝心法要』生誕 命日 大中4年(850年)<< 戻る
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行表(ぎょうひょう)

奈良時代の僧。大和国葛上郡高宮郷の出身。父は檜前(ひのくま)調使案麻呂。俗名は百戸。中国・北宗の禅で三祖にあたる道璿に師事して得度し、743年(天平15年)興福寺北倉院で受戒。弟子には伝教大師 最澄がいる。行表禅師。興福寺で禅・唯識を学ぶ。その後、近江国崇福寺の寺主となり1丈余りの千手観音菩薩を造り、次いで近江国の大国師となる。778年(宝亀9年)最澄の師となり、780年(宝亀11年)師主として最澄を得度させている。後に奈良大安寺に移る。最澄の「四種相承」(天台・密教・禅宗・大乗戒)の思想は、道璿が伝えた玉泉天台(荊州玉泉寺の天台)の影響とされる。生誕 養老6年(722年)命日 延暦16年2月...
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石頭希遷(せきとうきせん)

中国唐の時代の禅僧。端州高要県の出身。はじめ大鑑慧能のもとで学ぶもその遷化により兄弟子の青原行思に就いて嗣法。弟子には薬山惟儼、天皇道悟、丹霞天然がいる。諡は無際大師。著作に「参同契」。曹洞宗大本山總持寺には石頭のものとされるミイラが安置されている。生誕 久視元年(700年)命日 貞元6年12月25日(791年2月2日)<< 戻る
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吉備真備(きびのまきび)

奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に唐(中国)に入ります。唐で18年間、経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学びました。唐では知識人として名を馳せ、遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは吉備真備と阿倍仲麻呂のただ二人のみと言われるほどでした。聖武天皇の天平6年(734年)10月に第10次遣唐使の帰国に伴って玄昉と同船で帰途に就き、途中で種子島に漂着しますが、翌天平7年(735年)4月に多くの典籍を携え...
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行基(ぎょうき)

行基とは、奈良時代に活躍した高僧です。百済系渡来人の子孫として、和泉国(大阪府)に生まれました。諸国をまわって人々に仏教を広め、朝廷から民衆をまどわすとして弾圧されましたが、後に許され、東大寺の大仏建立にあたっては弟子や民衆を動員して協力し、聖武天皇から日本最初の大僧正(だいそうじょう)に任じられました。また、信者の力を借りて各地に池をほり、道路や橋をつくるなど社会事業にも尽くしたことから、行基菩薩とたたえられました。生誕 天智天皇7年(668年)命日 天平21年2月2日(749年2月23日)<< 戻る
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青原行思(せいげんぎょうし)

中国唐の時代の禅僧。吉州安復県出身。大鑑慧能に就いて嗣法。弟子には石頭希遷がいる。諡は弘済禅師。青原山浄居寺。子供の頃に寺に入り、しばらく修行した後に曹渓山(広東省韶関市曲江区)の大鑑慧能を尋ねて師事した。その後、故郷に帰って青原山に浄居寺(江西省吉安市青原区)を開く。後に弟弟子に当たる石頭希遷が大鑑慧能の死後に、第一座の勧めで来訪して弟子となり、その法を発展させ、その弟子筋からは、曹洞宗、雲門宗、法眼宗の三派が起こる。生誕 命日 開元28年12月13日(741年1月4日)<< 戻る
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義淵の弟子玄昉が入唐

717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄昉(げんぼう)も、ともに濮陽の智周に師事して法相宗を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝と言われる。<< 戻る
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義浄(ぎじょう)

義浄は、唐(中国)の僧侶。671年、広州から海路でインドにおもむき、695年に約400部の仏教経典をもって海路で帰国しました。その翻訳のほか、旅行記『南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)』と、インド求法僧(ぐほうそう)の伝記『大唐西域求法高僧伝(だいとうせいいきぐほうこうそうでん)』をのこしました。生誕 635年(貞観9年)命日 713年2月16日(先天2年1月17日)<< 戻る
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優婆毱多(うばきくた)

インドの仏教僧。マトゥラー(摩突羅国)で毱多長者の子として生まれる。紀元前3世紀頃。商那和修に就いて嗣法。弟子には提多迦がいる。生誕 命日 << 戻る
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アンニャーシコンダンニャ(阿若憍陳如/あにゃきょうちんにょ)

アンニャーシコンダンニャ Aññāsi-Koṇḍañña(巴) 阿若憍陳如(あにゃきょうちんにょ) アージュニャータカウンディニヤ Ājñāta-Kauṇḍinya(梵)、阿若多憍陳如、阿若多憍陳那、阿若憍隣、阿若拘隣、阿若倶隣などの音写、阿若は了本際、知本際、已知、解了、了教などの意訳で記述される場合もあります。アンニャーシコンダンニャは、お釈迦様の最初の弟子です。お釈迦様の成道より最初に教えを説いた五比丘の一人であり、またその中心的な人物です。カピラヴァストゥ城に近いドーナヴァットゥ村(Donavatthu)のバラモンの家庭出身です。お釈迦様の誕生時、スッドーダナ王(浄飯王/お釈迦様の父)...