【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」四馬(しめ)

投稿日:1255年6月1日 更新日:

世尊一日、外道来詣仏所問仏、不問有言、不問無言(世尊一日、外道、仏の所に来詣りて仏に問ひたてまつらく、有言を問はず、無言を問はず)。
世尊據坐良久(世尊、據坐良久したまふ)。
外道礼拝讃歎云、善哉世尊、大慈大悲、開我迷雲、令我得入(外道、礼拝し讃歎して云く、善哉世尊、大慈大悲、我が迷雲を開き、我れをして得入せしめたまへり)。
乃作礼而去(乃ち作礼して去りぬ)。
外道去了、阿難尋白仏言、外道以何所得、而言得入、称讃而去(外道去り了りて、阿難、尋いで仏に白して言さく、外道何の所得を以てか、而も得入すと言ひ、称讃して去るや)。

世尊云、如世間良馬、見鞭影而行(世間の良馬の、鞭影を見て行くが如し)。
祖師西来よりのち、いまにいたるまで、諸善知識おほくこの因縁を挙して参学のともがらにしめすに、あるいは年載をかさね、あるいは日月をかさねて、ままに開明し、仏法に信入するものあり。これを外道問仏話と称ず。しるべし、世尊に聖默聖説の二種の施設まします。これによりて得入するもの、みな如世間良馬見鞭影而行なり。聖默聖説にあらざる施設によりて得入するも、またかくのごとし。

龍樹祖師曰、為人説句、如快馬見鞭影、即入正路(人の為に句を説くに、快馬の鞭影を見て、即ち正路に入るが如し)。

あらゆる機縁、あるいは生不生の法をきき、三乗一乗の法をきく、しばしば邪路におもむかんとすれども、鞭影しきりにみゆるがごときは、すなはち正路にいるなり。

もし師にしたがひ、人にあひぬるがごときは、ところとして説句にあらざることなし、ときとして鞭影をみずといふことなきなり。即坐に鞭影をみるもの、三阿僧祇をへて鞭影をみるものあり、無量を経て鞭影をみ、正路にいることをうるなり。

雑阿含経曰、仏告比丘、有四種馬、一者見鞭影、即便驚悚隨御者意。二者触毛、便驚悚隨御者意。三者触肉、然後乃驚。四者徹骨、然後方覚。初馬如聞他聚落無常、即能生厭。次馬如聞己聚落無常、即能生厭。三馬如聞己親無常、即能生厭。四馬猶如己身病苦、方能生厭(雑阿含経に曰く、仏、比丘に告げたまはく、四種の馬有り、一つには鞭影を見るに、便ち驚悚して御者の意に隨ふ。二つには毛に触るれば、便ち驚悚して御者の意に隨ふ。三つには肉に触れて、然して後乃ち驚く。四つには骨に徹つて、然して後方に覚す。初めの馬は、他の聚落の無常を聞きて、即ち能く厭を生ずるが如し。次の馬は、己が聚落の無常を聞きて、即ち能く厭を生ずるが如し。三の馬は、己が親の無常を聞きて、即ち能く厭を生ずるが如し。四の馬は、猶ほ己が身の病苦によりて、方に能く厭を生ずるが如し)。

これ阿含の四馬なり。仏法を参学するとき、かならず学するところなり。真善知識として人中天上に出現し、ほとけのつかひとして祖師なるは、かならずこれを参学しきたりて、学者のために伝授するなり。しらざるは人天の善知識にあらず。学者もし厚殖善根の衆生にして、仏道ちかきものは、かならずこれをきくことをうるなり。仏道とほきものは、きかず、知らず。

しかあればすなはち、師匠いそぎとかんことをおもふべし、弟子いそぎきかんとこひねがふべし。いま生厭といふは、
仏以一音演説法(仏、一音を以て法を演説したまふに)、
衆生隨類各得解(衆生、類に隨つて各解を得)。
或有恐怖或歓喜(あるいは恐怖する有り、あるいは歓喜し)、
或生厭離或断疑(あるいは厭離を生じ、あるいは疑ひを断ず)。
なり。

大経曰、仏言、復次善男子、如調馬者、凡有四種。一者触毛、二者触皮、三者触肉、四者触骨。隨其所触、称御者意。如来亦爾、以四種法、調伏衆生。一為説生、便受仏語。如触其毛隨御者意。二説生老、便受仏語。如触毛皮、隨御者意。三者説生及以老病、便受仏語。如触毛皮肉隨御者意。四者説生及老病死、便受仏語。如触毛皮肉骨、隨御者意(大経に曰く、仏言はく、復た次に善男子、調馬者の如き、凡さ四種有り。一つには触毛、二つには触皮、三つには触肉、四つには触骨なり。其の触るる所に隨つて、御者の意に称ふ。如来も亦た爾なり、四種の法を以て、衆生を調伏したまふ。一つには為に生を説きたまふに、便ち仏語を受く。其の毛に触るれば御者の意に隨ふが如し。二つには生、老を説きたまふに、便ち仏語を受く。毛、皮に触るれば御者の意に隨ふが如し。三つには生及以び老、病を説きたまふに便ち仏語を受く。毛、皮、肉に触るれば御者の意に隨ふが如し。四つには生及び老、病、死を説きたまふに、便ち仏語を受く。毛、皮、肉、骨に触るれば御者の意に隨ふが如し)。

善男子、御者調馬、無有決定。如来世尊、調伏衆生、必定不虚。是故号仏調御丈夫(善男子、御者の馬を調ふること、決定有ること無し。如来世尊、衆生を調伏したまふこと、必定して虚しからず。是の故に仏を調御丈夫と号く)。

これを涅槃経の四馬となづく。学者ならはざるなし、諸仏ときたまはざるおはしまさず。ほとけにしたがひたてまつりてこれをきく、ほとけをみたてまつり、供養したてまつるごとには、かならず聴聞し、仏法を伝授するごとには、衆生のためにこれをとくこと、歴におこたらず。つひに仏果にいたりて、はじめ初発心のときのごとく、菩薩声聞、人天大会のためにこれをとく。このゆゑに、仏法僧宝種不断なり。

かくのごとくなるがゆゑに、諸仏の所と菩薩の所説と、はるかにことなり。しるべし、調馬師の法におほよそ四種あり。いはゆる触毛、触皮、触肉、触骨なり。これなにものを触毛せしむるとみえざれども、伝法の大士おもはくは、鞭なるべしと解す。

しかあれども、かならずしも調馬の法に鞭をもちゐるもあり、鞭をもちゐざるもあり。調馬かならず鞭のみにはかぎるべからず。たてるたけ八尺なる、これを龍馬とす。このむまととのふること、人間にすくなし。また千里馬といふむまあり、一日の内に千里をゆく。このむま五百里をゆくあひだ、血汗をながす、五百里すぎぬれば、清涼にしてはやし、このむまにのる人すくなし。ととのふる法、しれるものすくなし。このむま、神丹国にはなし、外国にあり。このむま、おのおのしきりに鞭を加すとみえず。

しかあれども、古徳いはく、調馬かならず鞭を加す。鞭にあらざればむまととのほらず。これ調馬の法なり。いま触毛皮肉骨の四法あり、毛をのぞきて皮に触することあるべからず。毛、皮をのぞきて肉、骨に触すべからず。かるがゆゑにしりぬ、これ鞭を加すべきなり。いまここにとかざるは文の不足なり。

諸経かくのごときのところおほし、如来世尊調御丈夫またしかあり。四種の法をもて、一切衆生を調伏して、必定不虚なり。いはゆる生を為説するにすなはち仏語をうくるあり、生、老を為するに仏語をうくるあり、生、老、病を為説するに仏語をうくるあり、生、老、病、死を為説するに仏語をうくるあり。のちの三をきくもの、いまだはじめの一を離れず。

世間の調馬の、触毛を離れて触皮肉骨あらざるがごとし。生老病死を為説すといふは、如来世尊の生老病死を為説しまします、衆生をして生老病死を離れしめんがためにあらず。生老病死すなはち道ととかず、生老病死すなはち道なりと解せしめんがためにとくにあらず。この生老病死を為説するによりて、一切衆生をして阿耨多羅三藐三菩提の法をえしめんがためなり。これ如来世尊、調伏衆生、必定不虚、是故号仏調御丈夫なり。

正法眼蔵四馬第九

建長七年乙卯夏安居日以御草案書写之畢

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。より分かりやすくする為に漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

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