【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』化身土巻 - 本08

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 復た二種有り。一には信正、二には信邪なり。「因果有り、仏・法・僧有り」と言わん。是れを「信正」と名づく。「因果三宝の性異無し」と言いて、諸の邪語・富闌那等を信ずる、是れを「信邪」と名づく。是の人、仏・法・僧宝を信ずと雖も、三宝同一性相を信ぜず。因果を信ずと雖も得者を信ぜず。是の故に名づけて「信不具足」とす。是の人、不具足信を成就すと。乃至

 善男子。四の善事有り。悪果を獲得せん。何等をか四とする。一には勝他の為の故に経典を読誦す。二には利養の為の故に禁戒を受持せん。三には他属の為の故にして布施を行ぜん。四には非想非非想処の為の故に繫念思惟せん。是の四の善事、悪果報を得ん。若し人、是くの如きの四事を修習せん。是れを「没して没し已りて還りて出ず。出で已りて還りて没す」と名づく。何が故ぞ「没」と名づくる。三有を楽うが故に。何故ぞ「出」と名づくる。明を見るを以ての故に。明は即ち是れ戒・施・定を聞くなり。何を以ての故に還りて出没するや。邪見を増長し憍慢を生ずるが故に。是の故に、我、経の中に於いて偈を説かく、

若し衆生有りて、諸有を楽いて、有の為に善悪の業を造作する、
是の人は涅槃道を迷失するなり。是れを蹔出還復没と名づく。
黒闇生死海を行じて、解脱を得と雖も煩悩を雑するは、
是の人、還りて悪果報を受く。是れを蹔出還復没と名づくと。

 如来に則ち二種の涅槃有り。一には有為、二には無為なり。有為涅槃は無常なり。楽・我・浄は無為涅槃なり。常人有りて、深く是の二種の戒倶に因果有りと信ぜん。是の故に名づけて「戒」とす。戒不具足、是の人は信・戒の二事を具せず。所楽多聞にして亦不具足なり。

 云何なるをか名づけて「聞不具足」とする。如来の所説は十二部経なり。唯、六部を信じて、未だ六部を信ぜず。是の故に名づけて「聞不具足」とす。復た是の六部の経を受持すと雖も読誦に能わずして他の為に解説するは、利益する所無けん。是の故に名づけて「聞不具足」とす。又復、是の六部の経を受け已りて、論議の為の故に、勝他の為の故に、利養の為の故に、諸有の為の故に、持読誦説せん。是の故に名づけて「聞不具足」とす」と。略抄

 又言わく(徳王菩薩品)、「「善男子。第一真実の善知識は、謂わゆる、菩薩・諸仏なり。」
 「世尊。何を以ての故に。」
 「常に三種の善調御を以ての故なり。何等をか三とする。一には畢竟軟語、二には畢竟呵責、三には軟語呵責なり。是の義を以ての故に菩薩・諸仏は即ち是れ真実の善知識なり。復た次に善男子。仏及び菩薩を大医とするが故に「善知識」と名づく。何を以ての故に。病を知りて薬を知る。病に応じて薬を授くるが故に。譬えば良医の善き八種の術の如し。先ず病相を観ず。相に三種有り。何等をか三とする。謂わく、風・熱・水なり。風病の人には、之に蘇油を授く。熱病の人には、之に石蜜を授く。水病の人には、之に薑湯を授く。病根を知るを以て、薬を授くるに差することを得。故に「良医」と名づく。仏及び菩薩も亦復是くの如し。諸の凡夫の病を知るに三種有り。一には貪欲、二には瞋恚、三には愚痴なり。貪欲の病には骨相を教観せしむ。瞋恚の病には慈悲相を観ぜしむ。愚痴の病には十二縁相を観ぜしむ。是の義を以ての故に諸仏・菩薩を「善知識」と名づく。善男子。譬えば、船師の、善く人を度すが故に「大船師」と名づくるが如し。諸仏・菩薩も亦復是くの如し。諸の衆生をして生死の大海を度す。是の義を以ての故に「善知識」と名づく」と。」抄出

 『華厳経』(唐訳入法界品)に言わく、「汝、善知識を念ずるに、我を生める父母の如し。我を養う乳母の如し。菩提分を増長す。衆疾を医療するが如し。天の、甘露を灑ぐが如し。日の、正道を示すが如し。月の、浄輪を転ずるが如し。」

 又言わく(唐訳入法界品)、「如来大慈悲、世間に出現して、普く諸の衆生の為に無上法輪を転じたまう。如来、無数劫に勤苦せしことは衆生の為なり。云何ぞ諸の世間、能く大師の恩を報ぜん」と。已上

 光明寺の和尚(善導)の云わく(般舟讃)、「唯恨むらくは、衆生の、疑うまじきを疑うことを。浄土、対面して相忤わず。弥陀の摂と不摂とを論ずること莫かれ。意、専心にして回すると回せざるに在り。或いは道わく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃じて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、何れの時、何れの劫にか娑婆を出でん。何んしてか今日、宝国に至ることを期せん。実に是れ娑婆本師の力なり。若し本師知識の勧に非ずは、弥陀の浄土、云何してか入らん。浄土に生ずることを得て慈恩を報ぜよ」と。

 又云わく(往生礼讃)、「仏世、甚だ値い難し。人、信慧有ること難し。遇たま希有の法を聞くこと、此れ復た最も難しとす。自ら信じ人を教えて信ぜしむること、難の中に転た更た難し。大悲、弘く〔「弘」の字、智昇法師『懺儀』の文なり。〕普く化するは、真に仏恩を報ずるに成る」と。

 又云わく(法事讃)、「帰去来、他郷には停まるべからず。仏に従いて本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願、自然に成ず。悲喜交わり流る。深く自ら度るに、釈迦仏の開悟に因らずは、弥陀の名願、何れの時にか聞かん。仏の慈恩を荷いても、実に報じ難し」と。

 又云わく(法事讃)、「十方六道、同じく此れ輪回して際無し。偱偱として愛波に沈みて苦海に沈む。仏道、人身、得難くして今已に得たり。浄土、聞き難くして今已に聞けり。信心、発し難くして今已に発せり」と。已上

 真に知りぬ。専修にして雑心なる者は、大慶喜心を獲ず。故に宗師(善導)は、「彼の仏恩を念報すること無し。業行を作すと雖も、心に軽慢を生ず。常に名利と相応するが故に。人我自ずから覆いて同行善知識に親近せざるが故に。楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するが故に」(往生礼讃)と云えり。

 悲しきかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定散心雑するが故に、出離、其の期無し。自ら流転輪回を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰し叵く、大信海に入り叵し。良に傷嗟すべし、深く悲歎すべし。

 凡そ大小聖人、一切善人、本願の嘉号を以て己が善根とするが故に、信を生ずること能わず、仏智を了らず、彼の因を建立せることを了知すること能わざる故に、報土に入ること無きなり。

 是を以て愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依りて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本・徳本の真門に回入して、偏に難思往生の心を発しき。然るに今、特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓、良に由有るかな。 爰に久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せん為に、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。弥いよ斯れを喜愛し、特に斯れを頂戴するなり。

(化身土巻 - 本 は続く)

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