・浄蓮寺 浄土真宗本願寺派 山口県下松市美里町2-12-1
寺伝によると開基は、大内弘世四代の孫、勝屋左門重治で、父は勝屋右馬允興久と云い陶氏方の武将であった。
興久は徳山・須々万の殿浴山城主であったが、弘治三年(1557)毛利元就との戦いに敗れ、城も落ちて勝屋一族は滅亡する。その際、重治は幼少であったので一命を助けられ、家臣の沼新左衛門・安達藤九郎に伴われて末武荘まで落ちのび、民間に成長した。しかし重治は頼る者もないので、父興久や討たれた家臣の菩提を弔うため発心して出家となり、名を蓮甫と改めた。
その後、蓮甫は大島村(徳山・大島)の教西(福間源六広明)と名のる出家と語らって、共に上京し、浄土真宗法門に帰依した。本願寺で幾年かの修行を終えた蓮甫は、木像名号等を受け、再び末武荘に帰り一宇を建立した。これが浄蓮寺であり、慶長十五年(1610)十月十七日のことであった。(リンク先より)
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