【仏教用語/人物集 索引】

織田信長、高野攻め

投稿日:1581年1月1日 更新日:

天正九年(1581年)、織田信長、高野攻め。

高野山は比叡山と同じように、独自の武力を蓄えていた。寺領は17万石以上あり、3万6千の兵を養っていたと記されている。高野山が織田信長を裏切った荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党が組織する「高野大衆一揆」の関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した。

このため天正9年(1581年)1月、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成した。 信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令。1月30日には高野聖1383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した。10月2日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした。10月5日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った。

天正10年(1582年)に入ると信長は武田征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を高野攻めの総大将として任命した。信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了した。

<< 戻る

-仏教を本気で学ぶ, 年表
-, , , , ,



Copyright © 1993 - 2024 寺院センター All Rights Reserved.