延喜21(921)年、空海上人は醍醐天皇から弘法大師の諡号(しごう)を賜わる。
東寺と金剛峯寺座主を兼務する観賢は、朝廷に働きかけて空海上人への弘法大師号宣下を実現させました。ですから、空海上人が「弘法大師」と呼ばれるようになったのはこれ以降です。
観賢は、諡号宣下の勅書と醍醐天皇の賜衣を奉じて高野山に乗り込み、大師号の報告会を行いました。『日本紀略』には、観賢が報告のため奥の院の廟所を開けたところ、空海の顔色は生前のままだったと記されています。この話が伝わり、空海は実は亡くなって荼毘に付されたわけではなく、御廟の中で「入定(にゅうじょう)」していると信じられるようになりました。
入定とは、生死の境を超えて衆生救済を目指す、真言密教の究極の修行です。土中の穴に入って瞑想状態に入り、そのままミイラ化して即身仏となりますが、これは死ではなく永遠の生命を獲得しているとされます。そして、弘法大師の入定信仰は観賢の弟子たちによって広まりました。
<< 戻る