【仏教用語/人物集 索引】

法然上人の配流

投稿日:1207年2月18日 更新日:

承元元(1207)年2月18日 専修念仏を停止し法然上人を土佐(実は讃岐)に、親鸞を越後に配流が決まり、安楽房遵西は六条河原で、住蓮は近江の馬淵で処刑されることに決まりました。

配流の決定した上人は 還俗 (げんぞく) させられ藤井元彦という俗名が与えられました。時に門弟が上人に、「一向専修念仏を停止する旨奏上し、内々に念仏教化なされては」と申し上げたところ、上人は、「私は流刑を少しも恨んではいない。流罪によって念仏を辺ぴな地方に化導できることは、またとない結構なことである。これはまさに朝廷のご恩とうけとるべきではないか」とさとされました。

「たとえ首をきられるとも、念仏のことだけは言わなければならない」「老齢のことであるから、同じ都に住んでいようと、流罪地にあろうと死ぬときは死ぬのである。今生の別れに気をとめるよりも、お浄土での再会を約束すべきではないか。生きている間は、たとえ遠く住所をへだてていても、南無阿弥陀仏とみ名をとなえるもの同志は、いつもみほとけの慈光のもとにかたく結ばれていることを忘れず、念仏を励むべきである」と、さとされました。

3月16日、下鳥羽から川船で淀川をくだり都をあとにしました。摂津の経ヶ島(神戸市兵庫区)で村人を、播磨の高砂(兵庫県高砂市高砂町)で漁夫を、さらに同じく室の泊(兵庫県揖保郡御津町室津)で遊女を導き、同月二十六日讃岐の塩飽島(香川県丸亀市本島町)につき、地頭高階入道西仁の館に入り、四国に至って小松庄の生福寺におちつき、教化をかさねました。流罪の身ではありましたが自由に教化ができてありがたかったと上人は受けとりました。

同年12月8日、赦免の宣言がくだりましたが、洛中に往還することはかたく禁じられていました。上人は宣旨のままに摂津国勝尾寺(大阪府箕面市)の二階堂におちつき、四年の歳月を送られました。この間の上人の心境は、「柴の戸をあけくれかかる白雲を、いつ紫の色にみなさん」という三十一文字の歌につきます。また宇都宮頼綱は、上人を勝尾寺にたずねて念仏の人となりました。

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