戒名

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森長可(もりながよし)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁・源義家の六男・義隆を祖とする森氏(仮冒の説あり)。父は森可成。兄に森可隆、弟に森成利ら。生誕 永禄元年(1558年)命日 天正12年4月9日(1584年5月18日)鉄開秀公大禅定門霊光院殿慧徳長榮日勝大居士<< 戻る
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池田恒興(いけだつねおき)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。清洲会議に出席した4人の織田家重臣の一人。池田恒利の子。子に元助、輝政など。 尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美濃大垣城主。通称は勝三郎。紀伊守を自称、晩年に入道し勝入と号した。生誕 天文5年(1536年)命日 天正12年4月9日(1584年5月18日)護国院雄岳宗英大禅定門<< 戻る
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龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。 仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤、次いで隆信と改めた。 「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。生誕 享禄2年2月15日(1529年3月24日)命日 天正12年3月24日(1584年5月4日)雲院殿泰巌宗龍大居士<< 戻る
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織田信孝(おだのぶたか/のぶのり)

安土桃山時代の武将、大名。織田信長の三男。伊勢国北部を支配していた豪族(国衆)神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸信孝(かんべ のぶたか)とも名乗った。生誕 永禄元年4月4日(1558年4月22日)命日 天正11年(1583年)の4月29日(6月19日)または、5月2日(6月21日)昭雲院殿高厳徳公龍厳徳公大禅定門<< 戻る
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お市の方(おいちのかた)

お市の方は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。小谷の方、小谷殿とも称される。名は通説では「於市」で、「市姫」とも云い、『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている。 戦国大名・織田信長の妹で、信長とは13歳離れている。通説では、父は織田信秀で、五女と伝えられ、母は土田御前とされている。初めは近江の大名・浅井長政の継室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の正室となった。子に茶々(豊臣秀吉側室)、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠継室)がいる。孫にあたる人物は豊臣秀頼(茶々の息子)、豊臣完子、千姫、徳川家光、徳川和子(江の娘、息子)など。徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は...
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柴田勝家(しばたかついえ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。織田信長の筆頭家老。戦上手で勇猛果敢、情に厚い性格だったと伝わる。織田信長の妹「お市の方」の再婚相手。生誕 大永2年(1522年)命日 天正11年4月24日(1583年6月14日)摧鬼院殿台岳還道大居士幡岳寺殿籌山勝公大居士<< 戻る
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斎藤利三(さいとうとしみつ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。明智光秀の家臣。春日局の父。生誕 天文3年(1534年)命日 天正10年6月17日(1582年7月6日)陽剛院殿亡蹄利三居士<< 戻る
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明智光秀(あけちみつひで)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。越前の朝倉義景に仕えた後、織田信長に従う。細川藤孝(幽斎)と共に将軍足利義昭と信長の間を取りもち、公家との交渉で力を発揮した。信長の命で丹波(現在の福知山、亀岡、南丹、綾部、京丹波と兵庫県篠山、丹波の各市町)を平定し、福知山城(福知山市)を築城した。亀山城(亀岡市)から出陣し、信長を本能寺(中京区)で討つ。わずか10日余り後、天王山(大山崎町)の戦いで豊臣秀吉に敗れてその日に命を落とし、「三日天下」と言われるようになった。生誕 1528年頃命日 天正10年6月13日(1582年7月2日)秀岳院宗光禅定門前日洲条鉄光秀居士長存寺殿明窓玄智大禅定門<<...
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織田信長(おだのぶなが)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。三英傑の一人。全国統一を推し進めた。尾張の清洲の城主で1560年に桶狭間の戦いで今川義元をやぶった後、急激に勢力を強めた。1568年、足利義昭を助けて京都に上り、義昭を室町幕府の将軍にした。1570年には姉川の戦いで、浅井・朝倉の連合軍をやぶり、浅井氏、朝倉氏を滅ぼした。1573年に室町幕府第15代将軍の義昭を追放し、約240年続いた室町幕府を滅亡に追い込んだ。1575年、長篠の戦いで武田勝頼をやぶり、翌年、近江に安土城を築いて全国統一のための本拠地とした。しかし、全国統一まであと一息のところで、1582年中国地方の毛利氏を攻略する途中、本能寺...
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森蘭丸(もりらんまる/成利/なりとし)

安土桃山時代の武将。織田信長の近習。俗称は蘭丸。本能寺の変で主君と2人の弟と共に討死した。名前については異説が多く、幼名を乱(らん)とするものや、諱を長定(ながさだ)や長康(ながやす)とするものなど。生誕 永禄8年(1565年)命日 天正10年6月2日(1582年6月21日)月江宗春居士瑞桂院殿鳳山智賢居士正翁定是禅定門<< 戻る
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織田信忠(おだのぶただ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田信長から生前に家督を譲られ、後継者と認められた。織田家当主二代目となる。武田氏を滅亡させた直後に本能寺の変で父・信長は本能寺、信忠は新二条御所にて自刃した。岐阜城主。生誕 弘治3年(1557年)命日 天正10年6月2日(1582年6月21日)大雲院三品羽林仙巖大禅定門<< 戻る
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武田勝頼(たけだかつより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、諏訪勝頼、武田四郎、武田四郎勝頼ともいう。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。生誕 天文15年(1546年)命日 天正10年3月11日(1582年4月3日)景徳院殿頼山勝公大居士<< 戻る
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松平信康(まつだいらのぶやす)- 徳川信康(とくがわのぶやす)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男。母は関口親永の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を譲られた。7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る。元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となる。天正元年(1573年)に初陣する。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは徳川軍の一手の大将として参加し、その後も武田氏との戦いでいくつもの...
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竹中半兵衛(たけなかはんべえ/重治/しげはる)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利。 羽柴秀吉の参謀として活躍し、黒田孝高と共に「両兵衛」「二兵衛」と称された。6月13日の命日と地元の農作業が落ち着いた一月後の7月13日には「軍師竹中半兵衛重治公を偲ぶ法要」が恒例で供養が行われる。生誕 天文13年9月11日(1544年9月27日)命日 天正7年6月13日(1579年7月6日)深竜水徹<< 戻る
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上杉謙信(うえすぎけんしん/輝虎/てるとら)

戦国時代の越後国の大名。関東管領。山内上杉家16代当主。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景の四男として生まれ、初名は長尾景虎。生誕 享禄3年1月21日(1530年2月18日)(グレゴリオ暦1530年2月28日)命日 天正6年3月13日(1578年4月19日)不識院殿真光謙信<< 戻る
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浄心寺-長野県安曇野市

・一佛山光明院浄心寺 浄土宗 長野県安曇野市三郷小倉3360-ヘ創建 天正6年(1578年)開山 存蓮社唯称泉譽上人開基 光明院殿一譽脱叟浄心大居士 小笠原但馬守貞政(リンク先より) << 戻る
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浅井長政(あざいながまさ)

戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言。生誕 天文14年(1545年)命日 天正元年9月1日(1573年9月26日)養源院天英宗清<< 戻る
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朝倉義景(あさくらよしかげ)

戦国時代の武将。越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代の当主。天文17年(1548年)3月、父の孝景が死去したため、16歳で家督を相続して第11代当主となり、延景と名乗る。9月9日には京都に対して代替わりの挨拶を行っている(『御湯殿上日記』)。生誕 天文2年9月24日(1533年10月12日)命日 天正元年8月20日(1573年9月16日)松雲院殿太球宗光大居士<< 戻る
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武田信玄(たけだしんげん/晴信/はるのぶ)

戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野および遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。生誕 大永...
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良珊寺-群馬県渋川市

・良珊寺 曹洞宗 群馬県渋川市上郷2919如意山良珊寺の開創は天正年間(1573-1592)のことと伝えられている。貞享5年(1688)の「除地の覚」によれば、その発祥は、白井城主長尾昌賢の家来の佐鳥全徳(橋山全徳庵主、-1568、永禄11)が弘治3年(1557)11月24日に没した妻(繁慶嶺昌大姉)のために建立した伴松庵であるという。(リンク先より) << 戻る
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北条氏康(ほうじょううじやす)

戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。生誕 永正12年(1515年)命日 元亀2年10月3日(1571年10月21日)大聖寺殿東陽宗岱大居士<< 戻る
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島津貴久(しまづたかひさ)

戦国時代の武将。薩摩の守護大名・戦国大名。島津氏の第15代当主。生誕 永正11年5月5日(1514年5月28日)命日 元亀2年6月23日(1571年7月15日)南林寺殿大中良等庵主<< 戻る
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永隣寺-群馬県富岡市

・永隣寺 曹洞宗 群馬県富岡市下丹生1568-1小幡信氏公が国峰城、宮崎城の両城の城主であった時、永隣寺を建て菩提寺とし、寺領として9,750坪を寄進した。信氏公は、永禄12年12月6日、静岡の蒲原の戦いで戦死。徳翁永隣大禅定門となり、信氏の夫人は、天正15年5月29日に逝去。算室正寿大禅定尼となった。(リンク先より)※永禄12年 1569年 << 戻る
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足利義輝(あしかがよしてる)

室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年〈天文15年〉- 1565年〈永禄8年〉)。足利宗家第20代当主。宣教師ルイス・フロイスは、義輝を「とても武勇すぐれて、勇気ある人だった」と評している(『フロイス日本史』第65章)。剣豪として名を馳せていた塚原卜伝から指導を受けた直弟子の一人。奥義「一之太刀」を伝授されたという説もあり、武術に優れた人物であったのではないかといわれている。生誕 1536年3月31日〈天文5年3月10日〉命日 1565年6月17日〈永禄8年5月19日〉光源院融山道圓<< 戻る
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尼子晴久(あまごはるひさ)

戦国時代、出雲国の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。尼子経久の嫡孫に当たる。山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し中国地方一の大大名となった。また大内、毛利両軍をよく制した。八カ国守護とも言われる。生誕 永正11年2月12日(1514年3月8日)命日 永禄3年12月24日(1561年1月9日)天威心勢大居士月光院殿愚溪宗見大居士光德院殿鳳頷英逸大居士<< 戻る
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今川義元(いまがわよしもと)

戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。生誕 永正16年(1519年)命日 永禄3年5月19日(1560年6月12日)天沢...
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織田信行(おだのぶゆき)

戦国時代の尾張の武将。同時代史料に見える諱は信行ではなく、信勝、達成、信成である。父は織田弾正忠家の織田信秀、母は土田御前で織田信長の同母弟である。 信行は、父の信秀の生前から尾張国内に判物を発給するなど一定の統治権を有した。信秀の死後は末森城主となって兄の信長と尾張の支配権を巡って争い、初期の信長の統治にとって大きな脅威となった。一時は信長に代わって弾正忠家の当主を名乗ったが、稲生の戦いで敗北し、その後、信長に謀殺された。信行の人物像について詳細は伝わらないが、信秀の葬儀において、信長が奇矯な行動をとった一方で、信行は礼儀に則った振舞いをしたという逸話がよく知られている。また、白山を信仰して...
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斎藤道三(さいとうどうさん/利政/としまさ)

戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。 名としては、長井規秀・長井秀龍・斎藤利政・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原規秀・斎藤利政・道三などのみである。現在では坂口安吾「信長」や山岡荘八「織田信長」といった小説の影響により美濃の蝮という綽名でも知られる。生誕 明応3年(1494年)命日 弘治2年4月20日(1556年5月28日)円覚院殿一翁道三日抬大居士神儀<< 戻る
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陶晴賢/陶隆房(すえはるかた/たかふさ)

戦国時代の武将。大内氏の家臣。 晴賢と名乗ったのは、天文20年に主君・大内義隆を討ち大友晴英を当主に据えてから厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけであり、それまでは初名の隆房を名乗っていた。「西国無双の侍大将」と呼ばれる一方で厳島の戦いに際し、弘中隆包の「元就の狙いは大内軍を狭い厳島に誘き寄せて殲滅しようとするものだ」という進言を入れずに出陣し大敗するなど、器量に乏しい面も覗かせる。生誕 大永元年(1521年)命日 天文24年10月1日(1555年10月16日)卓鍼軒呂翁全羨<< 戻る
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大内義隆(おおうちよしたか)

戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。 周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主 。第15代当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。義隆の時代には大内文化が爛熟し、西国の地方政権大内政権を築いて大内家は領土的に全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた一族でもある家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。生誕 永正4年11月15日(1507年12月18日)命日 天文20年9月1日(1551年9月30日)竜福寺殿瑞雲珠天大居士<< 戻る
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太寧寺-山梨県甲斐市

・太寧寺 臨済宗妙心寺派 山梨県甲斐市吉沢215開基 役の行者・神変菩薩 年限未詳開山 勅謚大法禅師竺仙梵僊大和尚1550年頃 再開基 武田信玄の将・馬場美濃守(法号 乾叟自元大居士)天正元年(1573年)頃、鎌倉建長寺の末寺から離脱し、京都花園妙心寺の末寺となる。(リンク先より) << 戻る
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尼子経久(あまごつねひさ)

戦国時代の武将・大名。出雲守護代。一度は守護代の地位を追われながらも後に復権、さらに主家からも独立して下剋上を果たし、「謀聖」「十一ヶ国太守」と呼ばれるまでの大物にのし上がった。生誕 長禄2年11月20日(1458年12月25日)命日 天文10年11月13日(1541年11月30日)興國院殿月叟省心大居士經久寺殿月窓清心大居士眞性院殿月叟省心大居士<< 戻る