浄土真宗の出来事

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大谷光演(おおたにこうえん)

明治から大正時代にかけての浄土真宗の僧、俳人、画家。法名は「彰如」(しょうにょ)。俳号は「句仏」。東本願寺第二十三代法主。真宗大谷派管長。伯爵。妻は、三条実美の三女・章子。『夢の跡』『我は我』『句仏句集』などの句集を残している。生誕 1875年(明治8年)2月27日命日 1943年(昭和18年)2月6日<< 戻る
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浅井了意(あさいりょうい)

江戸時代前期の浄土真宗の僧・仮名草子作家。父は東本願寺の末寺本照寺の住職。本名は不詳。号は松雲・瓢水子・羊岐斎。京都の出身。代表作品は「御伽婢子」(おとぎぼうこ)、「浮世物語」、「本朝女鑑」、「江戸名所記」、「東海道名所記」、「京雀」など。晩年に京都二条の本性寺の住職となり、昭儀坊了意と名乗った。生誕 命日 元禄4年1月1日(1691年1月29日)<< 戻る
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顕如(けんにょ/顯如)

戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第11世宗主、真宗大谷派第11代門首。石山本願寺住職。 顕如は号で、諱は光佐、法主を務めた寺号「本願寺」を冠して本願寺光佐とも呼ばれる。院号は信楽院。法印大僧正、准三宮。父は第10世宗主の証如、関白内大臣・九条稙通の猶子。室は左大臣・三条公頼三女の如春尼。長男に真宗大谷派第12代門首の教如、次男に真宗興正派第17世門主の顕尊、三男に浄土真宗本願寺派第12世宗主の准如がいる。宗教者でありながら武装した僧侶や信徒と共に、神仏の冒涜を繰り返した織田信長を敵とみなし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけて、天下統一を目前で阻止した。軍事的にも経済...
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蓮如(れんにょ)

蓮如とは、室町時代の浄土真宗の僧です。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首を務めました。大谷本願寺住職でもあります。諱は兼壽で、院号は信證院です。法印権大僧都、本願寺中興の祖とも呼ばれます。また、本願寺蓮如とも呼ばれます。浄土真宗では、蓮如上人と尊称されています。1882年に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されました。蓮如は、応永22年(1415)に本願寺第七世・存如の長男として京都に生まれました。母は蓮如が6歳の時に事情があって本願寺を去りました。その時の形見として持っていったのが『 鹿子の御影』(かのこのみえい)です。永享3年(1431)、蓮如は天台宗門跡寺院の青蓮院において...
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富樫政親(とがしまさちか)- 加賀一向一揆

富樫政親とは、室町時代後期の武将・守護大名。富樫氏21代当主。加賀国守護。長禄2年(1458年)、加賀北半国守護に任じられた赤松政則から加賀北部を取り戻すため、富樫政親は家臣団に擁されて奪回に尽力しました。応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発すると細川勝元方の東軍につきました。ところが、弟・幸千代が山名宗全方である西軍について敵対したため、政親は家督をめぐって弟と争うことになります。文明5年(1473年)、真宗高田派門徒や甲斐敏光と結んだ弟・幸千代に富樫政親は敗れて加賀を追われます。しかし、浄土真宗本願寺派門徒などの援助・加賀国内における武士団の支持を得て、弟・幸千代を加賀から追い出し再び当...
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『正信偈』(しょうしんげ)

『正信偈』とは略称で、正式には『正信念仏偈』(しょうしんねんぶつげ)といい、親鸞聖人の著書『教行信証』の「行巻」の末尾にある偈文です。全ての人に同じ心になってもらいたいという親鸞聖人の想いから、七言60行120句の偈文にまとめられたものです。浄土真宗で『正信偈』をお勤めするようになったのは、本願寺第8世蓮如上人(1415~1499年)が越前の吉崎(福井県あわら市吉崎)にいた文明5年(1473年)からです。それまでの浄土真宗では、善導大師の『六時礼讃』を日常のお勤めとしていたのを改め、親鸞聖人の『正信偈』と『三帖和讃』とを合わせて木版で印刷・出版し、僧侶・門徒がともに朝夕の勤行として読誦するよう...
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善如(ぜんにょ)

南北朝時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第4世宗主・真宗大谷派第4代門首。大谷本願寺住職。諱は俊玄。法印権大僧都。父は従覚(第3世覚如の次男)。第5世綽如は子。生誕 正慶2年2月2日(1333年2月24日)命日 康応元年2月29日(1389年4月4日)<< 戻る
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親鸞聖人(しんらんしょうにん)

親鸞は、鎌倉時代前半から中期にかけて活躍した僧侶。浄土真宗の宗祖とされます。法然を師と仰ぎ「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行くことに力を注ぎました。自らが開宗する意志は無かったと考えられています。(以下、敬称を省略します。)親鸞は1173年に、現在の京都市伏見区日野、法界寺・日野誕生院付近で誕生しました。お父さんは藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、お母さんは清和源氏の流れをくむ吉光女(きっこうにょ)と伝えられています。9歳の春に、伯父の日野範綱(ひののりつな)に連れられ、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円のもとで出家・得度しました。この...
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『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)

『教行信証』とは、元仁元(1224)年頃に書かれた親鸞聖人の著作です。正式名称は『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)です。全6巻からなる浄土真宗の根本聖典です。法然上人が著した『選択本願念仏集』の解説書とその正しさを証明した文書とされています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・▶ 総序▶ 教巻▶ 行巻▶ 信巻▶ 証巻▶ 真仏土巻▶ 化身土巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・顕浄土真実教行証文類序 竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。 然れば則ち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて...
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乗光寺-島根県出雲市

・乗光寺 浄土真宗本願寺派 島根県出雲市大社町杵築東598第四十九世出雲国造孝房卿の子、北島経孝卿が、大社明神の夢告によって明光上人に帰依し、出家して建立されたのに始まります。後鳥羽上皇の建保4年(1216)のことであります。(リンク先より) << 戻る
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親鸞聖人関東に赴く

親鸞聖人は三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼と結婚、男女6人の子女をもうけ、在俗のままで念仏の生活を営みました。建保2(1214)年、42歳の時、妻子と共に越後から関東に赴き、常陸の小島や稲田の草庵を中心として、多くの念仏者を育てました。<< 戻る
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佛光寺-京都府京都市下京区

・本山佛光寺 真宗仏光寺派 京都府京都市下京区高倉通仏光寺下る新開町397越後流罪に遭われた親鸞聖人は、ご赦免の翌年建暦二年(1212)に京都に帰られ、山科の地に草庵を結ばれました。この草庵が佛光寺草創と伝えられています。当初、真宗開闢の根本道場を意味して、「興隆正法寺」と号しました。(リンク先より) << 戻る
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興正寺-京都府京都市下京区

・興正寺 真宗興正派 京都府京都市下京区堀川通七条上ル興正寺(こうしょうじ)は、親鸞聖人(1173~1262)を開祖とする真宗興正派の本山です。 興正寺の創建は鎌倉時代にさかのぼります。承元の法難(建永の法難)により越後国(新潟県)へと配流された親鸞聖人が、建暦元年(1211)に勅免をうけた後、翌建暦2年(1212)に京都へと一時帰洛して、山科の地に一宇を草創したことに始まります。興正寺という寺号は、順徳天皇(1197~1242)によって名づけられたと伝えられ、日本に仏教をひろめた聖徳太子の事績にちなみ「正しき法を興し、さかえさす」(正法を興隆する)との願いが込められています。(リンク先より)...
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法圓寺-新潟県西蒲原郡

・法圓寺 真宗仏光寺派 新潟県西蒲原郡弥彦村大字矢作1960越後流罪に遭われた親鸞聖人は、ご免罪の翌年、建暦二年(1212)に京都に帰られ、京都・山科の地に草庵を結ばれました。この草庵を建てられたことが佛光寺の草創であると伝えられています。つまり、佛光寺は親鸞聖人が、ご在世の時に自らが建てられたお寺であるということが出来ます。(リンク先より) << 戻る
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称名寺-長野県長野市

・称名寺 真宗大谷派 長野県長野市若穂綿内8532粟津の戦(この時17歳、義仲31歳)に敗れ、後 各地を流浪。承元四年(1210年) 越後にいた親鸞聖人の弟子となる。 後、稲田へ同行、その後信濃へ帰り、金山の麓 波羅蜜寺に入り、寺号を義仲院水口山称名寺と変え、そこに住す。(リンク先より) << 戻る
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了明寺-新潟県長岡市

・了明寺 浄土真宗本願寺派 新潟県長岡市滝谷町1219了明寺の起源は真言宗であり、長承年間(1132~1140)、沼垂郡沼垂村に威徳院として建設されました。承元4年(1210)、親鸞聖人38歳の時、富山へお立ち寄りになった際、住職権大僧都直法院(俗名岩崎七郎左ヱ門)は、他力易行(お念仏の教え)の法を聞き弟子となり、法名を了明房釋真観と授けられ、紺紙金泥六字名号(南無阿弥陀仏)を書き与えられました。(リンク先より) << 戻る
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西光寺-香川県綾歌郡

・西光寺 真宗大谷派 香川県綾歌郡綾川町陶5702-1讃岐の地に居られた間いつもお供していた弟子然慶の生地、讃岐国鵜足郡鍋谷の里に暫し憩われて、ここに草庵を建立し、 阿弥陀如来尊像を安置せられました。上人此の草庵を諦観山西光寺と号すべし、と仰せられ帰洛のおり尊像と共にこの 草庵を然慶に賜うたのです。これが西光寺の創りで、時は承元二年(一二〇八)年も迫る師走でありました。(リンク先より) << 戻る
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誠照寺-福井県鯖江市

・誠照寺 真宗誠照寺派 福井県鯖江市本町3-2-38上野山誠照寺(うわのさん じょうしょうじ)の起源は、承元元年(1207年)宗祖親鸞聖人越後へ配流のとき、越前上野ヶ原(うわのがはら)の豪族波多野景之の別荘にご滞在になり、弥陀本願の要法を説かれた、いわゆる、初転法輪の聖地に始まるとされています。 景之はその一族と共に聞法して、溢れる法悦に随喜し、念仏の行者となり、空然(くうねん)と称したと伝わります。この地を「車の道場」(略称 車屋)と称しています。(リンク先より)<< 戻る
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福井別院本瑞寺-福井県福井市

・福井別院本瑞寺 真宗大谷派 福井県福井市花月1-2-36越前における親鸞聖人の教えの普及は承元元年(1207)の越後御流罪、北陸路を通過される頃から始まったと考えられ、念仏の道場はそのころより創設されたと推測されています。 蓮如上人(本願寺八代)が吉崎に向かわれた際(1471)の布教を契機に、多くの寺院が蓮如の本願寺に改宗・転派あるいは創建し、末寺となりました。この北ノ庄(現在の福井市)にも教化を受けた人々によって総坊(総道場)が建てられました。それは浜町(現在の中央三丁目。足羽川沿いのうち九十九橋から桜橋)近くで、近隣の九ヶ寺で管理するようになりました。(リンク先より)<< 戻る
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本伝寺-富山県黒部市

・本伝寺 真宗大谷派 富山県黒部市沓掛113建永2年(1207)、親鸞(1173~1262)越後流罪時に荻生村金津にあった(渕上家)祖先の家に立ち寄られて、その教えを受けた祖先は、親鸞から渕上一乗坊という称号を賜って坊舎を建てたことが始まりと伝えられています。(リンク先より) << 戻る
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浄興寺-新潟県上越市

・浄興寺 真宗浄興寺派 新潟県上越市寺町2-6-45浄興寺は浄土真宗の宗祖親鸞聖人によって創設された寺院です。聖人は承元元年(1207年)念仏禁止令により越後の国、国府(上越市)に流罪となられましたが、越後滞在七年の後、妻子と共に常陸国(茨城県)へ移られ、笠間郡稲田郷(笠間市稲田町)に稲田禅坊を開かれました。(リンク先より) << 戻る
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専修念仏の停止

法然聖人の主著である『選択集』と真影(しんねい)を写すことを許され、吉水で入門後に綽空(しゃっくう)と名のられていたのを善信(ぜんしん)と改めました。そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、既存仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元元年(1207年)後鳥羽上皇によって専修念仏が停止(ちょうじ)され、法然聖人の門弟4人の死罪、法然聖人と中心的な門弟7人が流罪に処され、親鸞聖人は越後に流罪となりました。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗の立場に立ちました。<< 戻る
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法然聖人と親鸞聖人が出会い弟子入り

親鸞29歳、比叡山では悟りに至る道を見出すことができずに山を下り、京都の六角堂に100日間の参籠(さんろう)をしました。尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためです。95日目の暁、聖徳太子の本地である救世観音から夢告を得て、東山の吉水で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人の草庵を訪ねました。100日間、聖人のもとへ通い続け、建仁元(1201)年3月、ついに「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思い、本願を信じ念仏する身となりした。<< 戻る
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親鸞聖人の得度

養和元(1181)年、9歳の春、伯父の日野範綱(ひののりつな)にともなわれて、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度し、範宴(はんねん)と名のりました。慈円和尚は歴史書『愚管抄』を記したことで知られ、また、後に専修念仏の法然聖人の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然聖人や親鸞聖人を庇護しています。出家後、比叡山にのぼってからの20年間、主に横川の首楞厳院で不断念仏を修する堂僧として、ひたすら学問と修行に励みました。<< 戻る
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親鸞聖人誕生

親鸞聖人は、承安3(1173)年4月1日、京都の日野、現在の法界寺・日野誕生院付近(京都市伏見区日野)で誕生しました。父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は清和源氏の流れをくむ吉光女(きっこうにょ)と伝えられています。<< 戻る
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錦織寺-滋賀県野洲市

錦織寺の創建は858年(天安2年)、天台宗の慈覚大師円仁により、最澄が比叡山を開く際に霊木で作成した鞍馬寺の毘沙門天像と同木同作の像を、天安堂(毘沙門堂)を建立して祀ったことによる。嘉禎元年(1235年)、浄土真宗の開祖である親鸞が関東からの帰洛の途中、美濃国の正蓮寺で毘沙門天の霊告を受けて当寺に立ち寄り、常陸国滞在中に霞ヶ浦にて感得した一尺八寸の阿弥陀如来座像をこの地に安置したとされる。そして、著述中であった『教行信証』全六巻の内、最後の二巻となる「真仏土巻」と「化身土巻」を作成し、教行信証を完成させ、その記念として真正面向きの肖像画である「満足の御影」を描いたとされる。そして親鸞に帰依した...
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蓮徳寺-愛知県名古屋市中川区

・蓮徳寺 真宗大谷派 愛知県名古屋市中川区荒子町字大門東91天平元年に秦澄和尚によって華厳宗の寺として創建されました。その後、天台宗になり荒子観音の一坊に園頓院(えんどんいん)となりました。寺伝によりますと、戦国時代に奥村伊予守正親が入寺し、浄土真宗になったと言われており、現代に至っています。(リンク先より) << 戻る