
10月02日


10月2日ご逝去 中陰からの忌日表
初七日忌 10月8日二七日忌 10月15日三七日忌 10月22日四七日忌 10月29日五七日忌・35日法要 11月5日六七日忌 11月12日七七日忌・満中陰・四十九日法要 11月19日百箇日忌 1月9日初七日からの七日毎の法要日は「命日前日」の曜日、百箇日は「命日翌日」の曜日と同じ曜日になるので、上記の日にちの確認と共に間違いのないよう曜日も確認してください。実際に行う法要は都合の良い曜日に繰り上げる、時間帯を調整することが多いようです。>> 年回忌法要が何年かを確認する<< 戻る

大滝秀治(おおたきひでじ)
俳優、ナレーター、実業家。文化功労者。株式会社劇団民藝代表取締役などを歴任した。生誕 1925年(大正14年)6月6日命日 2012年(平成24年)10月2日瑞藝院秀聲居士<< 戻る

金子哲雄(かねこてつお)
流通ジャーナリスト、プライスアナリスト、中小企業診断士(経済産業大臣登録)。千葉県生まれの神奈川県横浜市育ち。子供の頃より、スーパーマーケットのチラシを比較するのが好きだったことが流通ジャーナリストになる理由になった。慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学文学部へ進学。姉二人と弟一人がいたが、いずれも幼くして病死したため、姉弟のぶんも生きようと意識していたという。存命中、葬儀場や葬儀屋などの葬儀の進行や墓の手配、さらには仕出しなどの準備を自ら行い、2012年9月8日にはケイ・グラントに葬儀の司会を依頼するなどした。通夜、葬儀と告別式は、東京タワーの隣にある心光院で催され、同境内の共同供養塔に埋葬...

近藤貞雄(こんどうさだお)
プロ野球選手(投手)・指導者・監督、野球解説者。現役時代は西鉄軍、巨人、中日・名古屋で活躍し、引退後は中日、ロッテ、大洋、日本ハムのコーチ・監督を歴任した。生誕 1925年10月2日命日 2006年1月2日<< 戻る

マハトマ・ガンディー
インドのグジャラート出身の弁護士、宗教家、政治指導者である。インド独立の父。「マハートマー」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされるガンディーの尊称である。生誕 1869年10月2日命日 1948年1月30日<< 戻る

藤田東湖(ふじたとうこ)
江戸時代末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。生誕 文化3年3月16日(1806年5月4日)命日 安政2年10月2日(1855年11月11日)<< 戻る

良寛(りょうかん)
江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。本名は山本栄蔵。18歳の時、突如出家し、子供の頃に勉学を積んだ曹洞宗海嶽山光照寺(出雲崎町尼瀬)にて修行をする。安永8年(1779年)22歳の時、備中玉島(現・岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事する。寛政2年(1790年)印加(修行を終えた者が一人前の僧としての証明)を賜る。翌年、良寛34歳の時「好きなように旅をするが良い」と言い残し世を去った国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めた。48歳の時、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵(一日五合の米があれば良い、と農家から貰い...

天海(てんかい)
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧侶、大僧正。尊号は南光坊、院号は智楽院、諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与しました。『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されていることから、三浦氏の一族である蘆名氏の出で、陸奥国に生まれたとされますが、定説と呼ばれるものはありません。しかも、同縁起には「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったようです。また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられています。...

山崎宗鑑(やまざきそうかん)
戦国時代の連歌師・俳諧作者。近江国の志那町。近江国栗太郡志那村(後の常盤村、現草津市志那町)に生まれ、幼少時より室町幕府9代将軍足利義尚に仕え、一休宗純とも親しくよく連れ立って志那に来たと伝えられている。義尚が鈎の陣で没し(延徳元年、1489年)、無常を感じ出家した。摂津国尼崎または山城国薪村に隠棲し、その後淀川河畔の山城国(摂津国?)山崎に庵「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。大永3年(1523年)ごろ山崎の地を去り、享禄元年(1528年)に讃岐国(香川県観音寺市)の興昌寺に庵「一夜庵」を結びそこで生涯を終えた。「一夜庵」の名...

吉備真備(きびのまきび)
奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に唐(中国)に入ります。唐で18年間、経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学びました。唐では知識人として名を馳せ、遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは吉備真備と阿倍仲麻呂のただ二人のみと言われるほどでした。聖武天皇の天平6年(734年)10月に第10次遣唐使の帰国に伴って玄昉と同船で帰途に就き、途中で種子島に漂着しますが、翌天平7年(735年)4月に多くの典籍を携え...