天海(てんかい)

投稿日:1643年10月2日 更新日:

 
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧侶、大僧正。尊号は南光坊、院号は智楽院、諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与しました。

『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されていることから、三浦氏の一族である蘆名氏の出で、陸奥国に生まれたとされますが、定説と呼ばれるものはありません。しかも、同縁起には「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったようです。

また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられています。詳細が分からないため、姿を変えて生き残った明智光秀であるという説まであります。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長8年(1603年)に幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選んだとされる。天海は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、江戸が「四神相応」にかなうと考えたとされる。「四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は栄えると考えられたもの。

なお、富士山は実際には「北」(真北)からずれていますが、天海を始めとする当時の江戸の人々は、富士山をあえて北とみたて、江戸城の大手門の向きが「北」からずれているのも、富士山を「北」とみなしたためだとされます。

天海は、江戸城の北東と南西の方角にある「鬼門」・「裏鬼門」を重視し、鬼門を鎮護するため、江戸城の北東に寛永寺を築き、住職を務めました。寛永寺の寺号「東叡山」は東の比叡山を意味しますが、天海は、平安京の鬼門を守った比叡山の延暦寺に倣って、寛永寺の側に、近江の琵琶湖を思わせる不忍池を築き、琵琶湖の竹生島に倣って、池の中之島に弁財天を祀るなどし、寛永寺が、比叡山と同じ役割を果たすよう狙ったとされます。

徳川家康死後には神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争いますが、天海は自らの宗教である山王一実神道の「権現」で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張しました。

2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬したとされます。

生誕 天文5年(1536年)

命日 寛永20年10月2日(1643年11月13日)

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