便り 東慶寺-神奈川県鎌倉市 ・北鎌倉 松岡山東慶寺 臨済宗円覚寺派 神奈川県鎌倉市山ノ内1367東慶寺は鎌倉時代の弘安8年(1285)に開創された臨済宗円覚寺派の寺院です。女性から離婚できなかった封建時代に、当寺に駆け込めば離縁ができる女人救済の寺として明治に至るまでの600年間、縁切りの寺法を引き継いできました。(リンク先より) << 戻る 1285.01.01 便り年表
年表 瑩山禅師、諸国行脚へ 弘安8(1285)年1月、諸国行脚(あんぎゃ)の途に入り、越前大野の宝慶寺(ほうきょうじ)の寂円禅師、京都・万寿寺の宝覚禅師、東福寺の東山湛照や白雲恵暁禅師など様々な諸師に訪ね、また比叡山に上っては天台教学や一切経を学びました。弘安9(1286)年、紀州(和歌山)由良の興国寺の心地覚心禅師を訪ねました。正応元(1288)年秋、越前に戻り、再び宝慶寺を訪ねた後、永平寺に帰山します。<< 戻る 1285.01.01 年表
便り 常敬寺-千葉県野田市 ・常敬寺 浄土真宗本願寺派 千葉県野田市中戸379-11284年(弘安七年)親鸞聖人の孫、唯善上人の開基のお寺です。もともと鎌倉の地にあった常敬寺は、元寇により乱逆兵火に遭うことを心配した惟康親王が、時の執権北条時宗に命じて、下総国関宿深栖郷に七堂の大伽藍を建立させたことで現在の地に移りました。(リンク先より) << 戻る 1284.01.01 便り年表
便り 東昌寺-宮城県仙台市青葉区 ・東昌寺 臨済宗東福寺派 宮城県仙台市青葉区青葉町8-1東昌寺は1283年(弘安6年)福島の伊達の桑折という所から始まりました。伊達家の初代から3世までははっきりとした形の菩提寺というものは持っていませんでしたが、4世の伊達政依という方は仏道の帰依が厚く、自分自身の寺としてこの東昌寺を作ったのです。つまり、伊達家最初の菩提寺ということになります。(リンク先より) << 戻る 1283.01.01 便り年表
便り 満勝寺-宮城県仙台市青葉区 ・満勝寺 臨済宗東福寺派 宮城県仙台市青葉区柏木3-5-13當午山満勝寺(満勝禅寺)は、伊達氏初代朝宗公の菩提寺として、鎌倉期の弘安六年に伊達氏四世政依公により、現在の福島県桑折町に開創されたとされていますが、近年の調査で政依公以前に満勝寺が建立されていたことが明らかになりました。(リンク先より)※弘安六年 1283年 << 戻る 1283.01.01 便り年表
人物 日蓮聖人(にちれんしょうにん) 鎌倉時代の仏教の僧侶。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗の宗祖。鎌倉での宗教活動を理由に、得宗北条時宗によって佐渡に流罪にされます。滅後に皇室から日蓮大菩薩と立正大師の諡号を追贈されました。日蓮は、1222年2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・千葉県安房郡天津小湊町)の小湊で誕生しました。幼名は善日麿であったと伝えられている。1233年、12歳のとき、父母の元を離れ、生家近くの天台宗清澄寺(現在は日蓮宗)にのぼり道善房に師事します。薬王丸(やくおうまる)と改名し、四年間仏修行に励みました。そして虚空蔵菩薩に「日本一の智者となしたまへ」と祈願されました。1237年、16歳のとき... 1282.10.13 人物仏教を本気で学ぶ年表
便り 無量光寺-神奈川県相模原市南区 ・当麻山 無量光寺 時宗 神奈川県相模原市南区当麻578当寺をひらいたのは、「踊り念仏」を広めたことで知られる一遍上人さまです。文永7年(1270)上人が32歳の時、また弘安4年(1281)43歳の時に、奥州遊行の帰路、当山にとどまり修行をされたと伝えられています。弘安5年(1282)の3月、上人は鎌倉方面に向け遊行の旅に発たれることになりました。このとき名残を惜しむ弟子や信徒に乞われ、自らの姿を水鏡に映し、筆をとって絵姿を描き、自ら頭部を刻み、弟子たちも力を合わせて等身大の木像を完成されました。これが御影の像として尊ばれ、現在も本尊として安置され、多くの人々を信仰の道に導かれているのです。(... 1282.03.01 便り年表
仏教を本気で学ぶ 円覚寺派(本山円覚寺(鎌倉))の開派 弘安5(1282)年、中国・元から招かれた無学祖元禅師により始まる。臨済宗円覚寺派(楊岐派の禅)。<< 戻る 1282.01.01 仏教を本気で学ぶ年表
便り 報国寺-茨城県常総市 ・報国寺 浄土宗 茨城県常総市水海道亀岡町2637報国寺は、茨城県常総市にある浄土宗のお寺です。その昔、元は真言宗の寺院でしたが、弘安4年下総地方を教化されていた良忠上人が、この地に訪れ、多くの帰依者を得たことによって、浄土宗に改宗されました。(リンク先より)※弘安4年 1281年 << 戻る 1281.01.01 便り年表
年表 覚照山慶明寺の建立 慶明寺は弘安4年(1281年)建立の寺院。「今昔物語」に登場する天文学者で陰陽家であった阿倍晴明がここに立ち寄り、梵字を彫ったという自然石があります。石の下には、鎌倉時代の播磨の悪党花岡太郎が埋められていると伝えられています。<< 戻る 1281.01.01 年表
人物 孤雲懐奘(こうんえじょう) 鎌倉時代の禅宗僧侶。京都に生まれる。懐弉とも記述されます。道元禅師に就いて嗣法。弟子には徹通義介、寒巌義尹、寂円がいる。父は九条為通。幼少の頃より比叡山に上り、18歳で出家し天台宗の学僧になります。24歳で浄土宗西山派の証空について浄土教を学び、26歳で大和国多武峯にて日本達磨宗の覚晏に禅を学び印可を受けます。安貞2年(1228年)、興福寺衆徒の焼き討ちを受け避難する中、宋から帰国した道元禅師の評判を聞き、法戦を挑んだところ、その所見が優れていることを認め師事を願いでます。しかし、道元禅師はまだ独立した身でないことを理由に断られたものの、文暦元年(1234年)、建仁寺を出て山城国深草に草庵を結... 1280.08.24 人物仏教を本気で学ぶ年表
便り 光林寺-岩手県花巻市 ・光林寺 時宗 岩手県花巻市石鳥谷町中寺林12-54光林寺の創立は、鎌倉時代末期の弘安三年(1280)にまでさかのぼります。開基は、奥州稗貫郡の領主で寺林城主だった河野太郎通重の嫡子「河野通次」です。父親の河野太郎通重は伊予の領主・河野太郎通信の長男通俊の二男にあたります。河野通次は弘安二年の初夏、京都在番の折り、時宗開祖の一遍上人(1239~1289)に帰依し、発心して弟子になったと伝えられています。(リンク先より) << 戻る 1280.01.01 便り年表
便り 宝積寺-群馬県甘楽郡 ・宝積寺 曹洞宗 群馬県甘楽郡甘楽町大字轟774宝積寺(ほうしゃくじ)は、現在のお寺より南に4キロ行った山の中腹にある天寿庵(てんじゅあん)と言う庵(いおり)からきています。お寺の境内には、弘安3年(1280年)、正安4年(1302年)、延慶2年(1309年)の板碑が建立されています。この時代にはすでに天台宗の寺として、広い寺領を持ち、栄えていました。(リンク先より) << 戻る 1280.01.01 便り年表
便り 慈雲寺-千葉県船橋市 ・大峰山慈雲寺 曹洞宗 千葉県船橋市宮本6-25-7弘安2年(1279年)、北条時宗の招請により来朝した宋の僧、無学祖元を開山に迎え、当時この地を治めていた北条氏により創建されました。開山当初は、現在の峰台小学校の地を中心に七堂伽藍の整った大寺でした。(リンク先より) << 戻る 1279.01.01 便り年表
仏教を本気で学ぶ 踊り念仏の始まり(おどりねんぶつ) 弘安2年(1279年)、信濃国佐久、小田切の里では、集まった時衆(人々)と念仏を唱えていたところ、一遍上人をはじめ時衆らが踊りだしました。これが踊り念仏の始まりです。一遍上人の踊り念仏は、激しい踊りに身を委ねることで、無我の内に人間と阿弥陀仏の距離を一にするという実に密教的な念仏でした。一遍上人の踊り念仏は盆踊りの原型だといわれています。<< 戻る 1279.01.01 仏教を本気で学ぶ年表
便り 松吟寺-茨城県常陸大宮市 ・松吟寺 臨済宗東福寺派 茨城県常陸大宮市下町207当山は、臨済宗東福寺(とうふくじ)派大本山東福寺の直末(総本山直属の末寺)として、建治二年(1276年)開基(かいき)常陸国(ひたちのくに)守護佐竹常陸介義胤公、開山は東福寺開山円爾弁円大和尚「勅諡(ちょくし)聖一国師(しょういちこくし)」により開創されました名刹です。(リンク先より) << 戻る 1276.01.01 便り年表
年表 瑩山禅師永平寺に入る 観世音菩薩を信仰する母親のもとで育てられた瑩山禅師は、文永12/建治元(1275)年、8歳の時に永平寺に入り、徹通義介禅師の下で沙弥となり修行を始めました。<< 戻る 1275.01.01 年表
年表 日蓮聖人、身延山久遠寺を開山 文永11(1274)年2月14日付で赦免状が出され、3月8日佐渡に届きました。3月13日に佐渡を立ち、3月26日鎌倉に帰ります。5月17日、身延一帯の地頭である波木井実長の招きで山梨県の身延山に入り、身延山久遠寺を開山しました。建治元(1275)年6月『撰時抄』を述作します。建治2(1276)年、師の道善房が入滅し、7月21日、墓前に『報恩抄』を棒読しました。弘安4(1281)年11月、久遠寺に十間四面の大堂が建立されました。<< 戻る 1274.05.17 年表
仏教を本気で学ぶ 一遍上人、熊野での成道(時宗の開宗) 文永11年(1274)、遊行・賦算をしながら、熊野へ向かっていた道中、ある出来事が一遍上人を思い悩ませます。熊野山中で出会った一人の僧に念仏札を受けるように勧めた時に、信心が起こらないので受け取れないと拒否されたのです。一遍上人は、ここでこの僧が念仏札を受けなければ、周りにいる他の人も念仏札を受けないのではないかと思い、無理にその僧に念仏札を与えました。自らの布教方法に疑問を持った一遍上人は、すぐに熊野本宮証誠殿に参籠し熊野権現の啓示を仰がれます。すると、熊野権現が現れて次のように示されました。「融通念仏を進める聖よ、どうして念仏を間違えて勧めているのか。あなたの勧めによって、全ての人々がはじ... 1274.01.01 仏教を本気で学ぶ年表
便り 正伝護国禅寺-京都府京都市北区 ・吉祥山正伝護国禅寺 臨済宗南禅寺派 京都府京都市北区西賀茂北鎮守庵町72文応元年(1260)に中国の栄より来朝した、兀菴普寧禅師に師事すること多年、遂にその蘊奥を極められたという。文永十年(1273)に聖護院の静成法印が東巌禅師に帰依し、亀山天皇の勅許を蒙り京都烏丸今出川付近に祭殿一宇を建立したのに始まる。(リンク先より) << 戻る 1273.01.01 便り年表
年表 一遍上人の遊行 再び修行する決心を固められた一遍上人は、故郷へ戻り、窪寺という閑室にこもり一人念仏三昧されます。この三年間の参籠の間に「十一不二頌じゅういちふにじゅ」(一遍上人の悟り境地を表す漢詩)を感得されました。そして、文永10年(1273)菅生の岩屋寺での参籠を経て、家や土地など一切を捨てた遊行の旅に出られました。同行者は、超一、超二、念仏房、聖戒です。ただし、聖戒とは桜井(愛媛県今治市)で「臨終の時は必ず再会しましょう」と約束して別れています。まず、当時極楽の東門の中心と考えられていた四天王寺を訪れた一遍上人は、本尊に念仏勧進の願を立てて、それを生涯の使命とされました。一遍上人は遊行によって、学問や理... 1273.01.01 年表
便り 西光寺-愛知県愛西市 ・【公式サイト】愛西市寺院西光寺 真宗大谷派 愛知県愛西市稲葉本郷200古い寺伝によれば当寺は元天台宗で諦善(文永9年(1272)5月死亡)が創立した。その頃より伝教大師作と言われる聖徳太子立像を安置している。元美濃国の幡長という所にあったが中島郡の三宅村(現平和町)に移ると、当時の領主橋本伊賀守の菩提所となった。(リンク先より) << 戻る 1272.05.01 便り年表
便り 本願寺(西本願寺)-京都府京都市下京区 ・龍谷山 本願寺(西本願寺) 浄土真宗本願寺派 京都府京都市下京区堀川通花屋町下ルもともと、本願寺は、親鸞聖人の廟堂(びょうどう)から発展しました。親鸞聖人が弘長2年11月28日(新暦1263年1月16日)に90歳で往生されると、京都東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔を建て、遺骨をおさめました。 しかし、聖人の墓所はきわめて簡素なものでありましたため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼(かくしんに)さまや、聖人の遺徳を慕う東国の門弟達は寂莫の感を深めました。そこで、10年後の文永9年(1272)に、大谷の西、吉水の北にある地に関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人... 1272.01.01 便り年表
年表 日蓮聖人、佐渡での活動 文永8(1271)年10月28日、日蓮聖人は佐渡に到着します。文永9(1272)年2月、『開目抄』を述作します。文永10(1273)年4月25日、『観心本尊抄』述作し、同年7月8日、大曼荼羅御本尊を初めて書き顕示します。<< 戻る 1271.10.28 年表
仏教を本気で学ぶ 龍口法難 文永8(1271)年9月12日、幕府や諸宗を批判したとして捕らえられ、腰越龍ノ口刑場にて処刑されかけますが、斬首の刑は中止され、その後、佐渡流罪となりました。<< 戻る 1271.09.12 仏教を本気で学ぶ年表
年表 一遍上人の再出家 再出家することになり最初に、文永8(1271)年信濃国(長野県長野市)の善光寺を訪れました。ここで「二河白道図にがびゃくどうず」を写して自分の本尊とされました。「二河白道」とは、唐の善導大師が“旅人・二河(火の河、水の河)・一本の白い道・阿弥陀如来・釈迦如来”を用いて、極楽往生を願う人の信心を表した比喩です。一遍上人はこの善光寺での参籠によって、人々への化益を強く決心されました。<< 戻る 1271.01.01 年表
便り 宝蔵寺-京都府京都市中京区 ・宝蔵寺 浄土宗西山深草派 京都府京都市中京区裏寺町通蛸薬師上る裏寺町587弘法大師空海の創立と伝えられる。その後、文永6年(1269)如輪上人により元西壬生郷に開基される。 弘安2年(1279)に如輪上人が遷化、天正9年(1581)玉阿律師が中興再興された。 (リンク先より) << 戻る 1269.01.01 便り年表