興福寺-奈良県奈良市

便り

当たりで福をもらってきました

昨日は、豪雨の中を出発して、奈良へ向かいました。雨天決行、でもこんなに降ったらあかん…かも。興福寺中金堂落慶法要の記念コンサートの入場券が当たり🎯ました。(リンク先より)・当たりで福をもらってきました
市区町村の宗派別寺院一覧

奈良県奈良市の諸宗派寺院

寺院情報を宗派別に掲載。住所等を参考にしてご利用ください。蓮長寺 日蓮宗 奈良県奈良市油阪町426唐招提寺 律宗 奈良県奈良市五条町13-46元興寺 真言律宗 奈良県奈良市中院町11西大寺 真言律宗 奈良県奈良市西大寺芝町1-1-5不退寺 真言律宗 奈良県奈良市法蓮東垣内町517般若寺 真言律宗 奈良県奈良市般若寺町221薬師寺 法相宗 奈良県奈良市西ノ京町457喜光寺 法相宗 奈良県奈良市菅原町508興福寺 法相宗 奈良県奈良市登大路町48空海寺 華厳宗 奈良県奈良市雑司町167東大寺 華厳宗(大本山) 奈良県奈良市雑司町406-1帯解寺 華厳宗 奈良県奈良市今市町734正暦寺 菩提山真言宗...
年表

興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が法相宗の大本山に

1882年に興福寺、薬師寺、法隆寺の3寺が法相宗の大本山となった。<< 戻る
人物

尋尊(じんそん)

尋尊とは、室町時代中期から戦国時代にかけての奈良興福寺の僧。父は一条兼良。母は中御門宣俊の娘。興福寺180世別当。大乗院第20代門跡。奈良長谷寺・橘寺・薬師寺の別当をも兼任した。応仁の乱(1467年-1477年)では父兼良の日記『藤河ノ記』を兵火から守った(『群書類従』所収)。また、大乗院に伝わる日記類を編纂し、大乗院日記目録を作成した。「尋尊大僧正記」は興福寺に関することだけではなく、この時代を知る上での必須の資料である。この日記と後に門跡を務めた政覚・経尋の日記をあわせて『大乗院寺社雑事記』と呼び、室町時代研究の根本史料の一つとなっている。生誕 永享2年8月7日(1430年8月25日)命日...
年表

興福寺奏状

元久2(1205)年9月、興福寺衆徒、後鳥羽院に念仏禁断の奏状に九箇条の過失を書きそえ強訴しました。法然上人およびその門弟、とくに法本房行空と安楽房遵西の処罰を強訴しました。その内容は勅許(ちょっきょ)を得ないで一宗をたてたこと、摂取不捨曼荼羅―専修念仏者だけが阿弥陀仏の光明によって救われ、これに対して念仏以外の諸善を行ずる者は光明を預からないことを絵画的に表現したものが流行していること、諸行をもって往生業としないで、称名一辺倒であること、最低の不観不定の口称念仏を勧めることは、最上の観念を捨てることであり、念仏の真意をあやまること、阿弥陀仏の名号やその浄土のことを説き示された本師である釈尊を...
年表

法然上人、学匠を訪問

保元元(1156)年、求法のため洛西嵯峨の清凉寺に参籠、のち南都の興福寺に法相宗の蔵俊をたずね、醍醐に三論宗の寛雅をたずね、御室に華厳宗の慶雅をたずねなど学匠を訪問する。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

祈親上人定誉、高野山復興に着手

落雷からの火災で荒廃した高野山を再興したのは、法華経の持経者(聖)だった興福寺の定誉(958-1047)です。長和5年(1016年)、観音像のお告げで高野山に登った定誉は、冬の寒さを防ぐ方法を編み出し、僧侶たちを山内へ呼び戻すなど、金剛峯寺の復興につとめました。 << 戻る
年表

奈良の興福寺に悲田院・施薬院

730年、奈良の興福寺に悲田院・施薬院をもうける。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

義淵の弟子玄昉が入唐

717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄昉(げんぼう)も、ともに濮陽の智周に師事して法相宗を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝と言われる。<< 戻る
年表

興福寺に改称

和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。<< 戻る
年表

山階寺の移転、厩坂寺に改称

天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。後の興福寺。<< 戻る
便り

興福寺-奈良県奈良市

・興福寺 法相宗 奈良県奈良市登大路町48・第八番 ⇒ 西国三十三所 第九番 興福寺 南円堂 ⇒ 第十番法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。 その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置する為に造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。さらに、平城遷都の際、...