数の単位

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牟呼栗多(むこりった)

牟呼栗多とは、「しばらく」「少しの間」「瞬時」の意味を持ち、時間の単位を表します。『摩訶僧祇律』では、須臾(しゅゆ)と表記されています。それによると、1昼夜 = 30須臾(牟呼栗多)1須臾(牟呼栗多) = 20羅予(らよ)『大毘婆沙論』『倶舎論』では、1昼夜 = 30牟呼栗多1牟呼栗多 = 30臘縛(ろうばく)1昼夜とは24時間で、1440分 = 30牟呼栗多よって、1牟呼栗多は約48分を表します。ただし、上記は一例で、この単位が表す時間の程度には使われ方によって幅があります。また、松山ケンイチ主演で公開された映画「川っぺりムコリッタ」は、ここで説明している牟呼栗多から採られ、この映画は「かも...
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須臾(しゅゆ)

須臾とは、「しばらく」「少しの間」「瞬時」の意味を持ち、時間の単位を表します。『大毘婆沙論』『倶舎論』では、牟呼栗多(むこりった)と表記されています。それによると、1昼夜 = 30牟呼栗多(須臾)1牟呼栗多(須臾) = 30臘縛(ろうばく)『摩訶僧祇律』では、1昼夜 = 30須臾1須臾 = 20羅予(らよ)1昼夜とは24時間で、1440分 = 30須臾よって、1須臾は約48分を表します。ただし、上記は一例で、この単位が表す時間の程度には使われ方によって幅があります。<< 戻る
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恒河沙(ごうがしゃ)

恒河沙(ごうがしゃ)はサンスクリット語「ガンガー(गंगा、Gaṅgā)」に相当する音写です。恒河沙とはガンジス川にある無数の砂の意味であり、もともと無限の数量の単位、例えとして仏典で用いられていました。日本でも平安時代には非常に大きな数を表す概念として、中国から仏典と共に「恒河沙」という語が伝えられていたようです。平安時代後期に成立した説話集である『今昔物語』に、「数え切れないくらい多くの国」の例えで「無量無辺不可思議那由他恒河沙の国土を過ぎ行きて」といった用例が見られます。<< 戻る
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刹那(せつな)

刹那(せつな)はサンスクリット語「クシャナ(ksana)」に相当する音写で、漢訳では「念」と表されています。刹那は仏教の時間の概念の1つで、きわめて短い時間、瞬間を意味し、最も短い時間の単位です。その長さについては、一弾指(いちだんし、指を1回弾く)する間に65刹那あるという説や、75分の1秒が一刹那に相当するという説などの諸説があります。もともと「刹那という極めて短い時間を大切に生きよ」という意味の教えでした。また、この世の存在物は実体を伴ってあるように見えるけれど、実際には一刹那ごとに生滅を繰り返していて実体がないことを「刹那生滅」あるいは「刹那無常」といいます。また、上記の画像のように、...