奈良時代

年表

年表

寺院センターが情報収集した寺院など仏教年表をまとめています。宗派、出来事と時代のタグで分け、投稿日を出来事に合わせていますが、月日が分からない多くの場合で「1月1日」に設定しています。飛鳥時代, 奈良時代, 平安時代, 鎌倉時代, 室町時代, 安土桃山時代, 江戸時代, 明治時代, 大正時代, 昭和時代, 平成時代, 令和時代, 曹洞宗の出来事, 浄土宗の出来事, 浄土真宗の出来事, 天台宗の出来事, 真言宗の出来事, 臨済宗の出来事, 日蓮系宗派の出来事, 諸宗派の出来事, 世界の出来事(仏教),世界の出来事(仏教以外),仏教(インド)の出来事,仏教(中国)の出来事,日本の出来事(仏教以外)...
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円通寺-東京都荒川区

・円通寺 曹洞宗 東京都荒川区南千住1-59-11開創 延暦十年 西暦791年 坂上田村麻呂将軍、八幡太郎義家再建本尊 聖観世音菩薩、聖徳太子一刀三禮御作開山 観月徹禪大和尚(前永平宗慶4世中興・總泉17世中興兼最乗258世)(リンク先より) << 戻る
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比叡山延暦寺-滋賀県大津市

・比叡山延暦寺 天台宗 滋賀県大津市坂本本町4220最澄は12歳で近江の国分寺行表(ぎょうひょう)の弟子となり、宝亀11年(780)に得度、延暦4年(785)に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(250戒)を受け、国に認められた正式な僧侶となられたのです。受戒後3ヵ月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り修行の生活に入られました。そして若き僧最澄は願文を作り、一乗の教えを体解(たいげ)するまで山を下りないと、み仏に誓いました。その後、延暦7年(788)に一乗止観院(後の根本中堂)を創建、本尊として薬師如来を刻まれました。最澄亡き後、一乗止観院は「延暦寺」の寺額を勅賜され、比叡山延暦寺と呼ばれるようになりま...
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空海上人の仏道修行

延暦7(788)年、平城京(古都。784年、長岡京に遷都)に出て、延暦8(789)年、母方の叔父さんである阿刀大足(あとのおおたり)について論語、孝経、史伝、文章などを学びました。延暦11(792)年、18歳で長岡京の大学寮に入り、明経道、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられます。大学寮の勉強だけではもの足らず、大学寮を去って仏道修行を始めました。一説には奈良岩渕寺の勤操大徳(ごんそうだいとく)から「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を授かり、大峯山(おおみねさん)や阿波(徳島県)の大滝ガ嶽(たいりゅうがだけ)、土佐(高知県)の室戸崎(むろとのさき)などの霊所で修行を続けられま...
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三松寺-奈良県奈良市

・三松寺 曹洞宗 奈良県奈良市七条1-26-10奈良時代、桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏が延歴4年(785)富雄の地に、万民富楽の勅願寺として建立。(参考:瑞雲山 三松寺)<< 戻る
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笠森寺-千葉県長生郡

・笠森観音(笠森寺) 天台宗 千葉県長生郡長南町笠森302784年(延暦3年) 伝教大師最澄上人により開基1028年(長元元年) 後一條天皇の勅願により観音堂建立(リンク先より) << 戻る
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長岡京に遷都

784年、長岡京に都を遷す。<< 戻る
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龍泉寺-愛知県名古屋市守山区

・龍泉寺 天台宗 愛知県名古屋市守山区竜泉寺1丁目902松洞山大行院と号します。延暦年間(782‐806年)、伝教大師最澄が創建したといわれています。宝暦5年(1755年)に記された古文書「龍泉寺記」には、「その昔、伝教大師が熱田神宮に参篭中、龍神の御告げを受け、龍の住む多々羅池のほとりでお経を唱えると、龍が天に昇ると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀った」という内容が記述されています。(リンク先より) << 戻る
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華蔵寺-島根県松江市

・華蔵寺 臨済宗南禅寺派 島根県松江市枕木町205桓武天皇の延暦年間に天台宗の僧、智元上人が開基となります。その後、南禅寺派の御開基の亀山法皇の時代に禅宗に改め、南禅寺の末寺となります。以来、皇室の尊信、国主の帰依、外護を受け、枕木十二坊と称し隆盛を極めました(リンク先より)※延暦年間 782年から806年 << 戻る
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六道珍皇寺-京都府京都市東山区

・六道珍皇寺 臨済宗建仁寺派 京都府京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町595当寺の開基は、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊僧都(きょうしゅんそうず)で、平安前期の延暦年間(782年〜805年)の開創である。当寺は、古くは愛宕寺(おたぎでら)とも呼ばれた。 しかし当寺の建立には、諸説があり空海説(「叡山記録」ほか)や小野篁説(伊呂波字類抄・今昔物語集)をはじめ、一説には宝皇寺(ほうこうじ)の後身説もある。宝皇寺とは、東山阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)(鳥辺山)山麓一帯に住んでいた鳥部氏が建立した寺で鳥部寺とも呼ばれていたが、今はその遺址(いし)も明らかでない。(リンク先より)<<...
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神護寺-京都府京都市右京区

・高雄山神護寺 高野山真言宗 京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町5平安遷都の提唱者であり、また新都市造営の推進者として知られる和気清麻呂は、天応元年(781)、国家安泰を祈願し河内に神願寺を、またほぼ同じ時期に、山城に私寺として高雄山寺を建立している。 神願寺が実際どこにあったのか、確かな資料が残っていないため、いまだ確認されていないが、その発願は和気清麻呂がかねて宇佐八幡大紳の神託を請うた時「一切経を写し、仏像を作り、最勝王経を読誦して一伽藍を建て,万代安寧を祈願せよ」というお告げを受け,その心願を成就するためと伝えられ、寺名もそこに由来している。また、私寺として建てられた高雄山寺は、海抜900...
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桓武天皇が即位

781年、桓武天皇が即位。<< 戻る
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空海上人の誕生

空海上人は、宝亀5(774)年6月15日、讃岐国の屏風ガ浦(現在の四国香川県善通寺市)で誕生しました。父は、郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は、玉依御前(たまよりごぜん)の三男で、幼名を真魚(まお)といいました。<< 戻る
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金倉寺-香川県善通寺市

・金倉寺 天台寺門宗 香川県善通寺市金蔵寺町1160・75番札所 ⇒ 四国八十八ヶ所 第76番札所 鶏足山 宝幢院 金倉寺 ⇒ 77番札所金倉寺の創建は宝亀5年(774)、弘法大師さま誕生の年に、 和気道善(わけのどうぜん)が等身の如意輪観音像を刻み、 一堂を建立してお祀りしたことに始まります。 このお堂は自在王堂と名付けられ、道善の子である宅成(やかなり)によって、 道善寺と改められました。 この宅成の長子が智証大師さまです。(リンク先より)<< 戻る
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道鏡(どうきょう)

道鏡とは、河内国若江郡(現在の八尾市の一部)出身の奈良時代の僧で、葛城山などで厳しい修業を積み、修験道や呪術にも優れ、孝謙上皇(東大寺を建てた聖武天皇と光明皇后の娘)の病気を治したことから重用されるようになりました。孝謙上皇とは、日本の歴史上8人の女性天皇が存在したその一人で、奈良時代に第46代の孝謙天皇(こうけんてんのう)、一旦譲位し、第48代の称徳天皇(しょうとくてんのう)として即位しています。道鏡を皇位につけようとした宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐう しんたく じけん)が明るみに出たことや、天皇の後ろ盾を失くしたことで道鏡は失脚します。文武天皇4年(700年)、河内国若江郡(現在の八...
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浄尊寺-福井県福井市

・浄尊寺 真宗大谷派 福井県福井市和田中2-2002宝亀2年(771年)3月5日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の子、浄尊麿(きよたかまろ)、一門の菩提のため出家し、殿下(現在の福井市殿下町)の里に一坊を開き、泰澄大師の末学となり、正源院と称した。すなわち浄尊寺の開基である。(リンク先より) << 戻る
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高勝寺-栃木県下都賀郡

・高勝寺 天台宗 栃木県下都賀郡岩舟町静3当山は岩船山 高勝寺と号す。弘誓坊明願が宝亀2年に開山、「生身の地蔵尊」を本尊とする天台宗の末寺である。(リンク先より)※宝亀2年 771年 << 戻る
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鞍馬寺-京都府京都市左京区

・鞍馬寺 鞍馬弘教 京都府京都市左京区鞍馬本町1074『鞍馬蓋寺縁起』によれば、奈良時代末期の宝亀元年(770) 奈良・唐招提寺の鑑真和上(688~763年)の高弟・鑑禎上人は、正月4日寅の夜の夢告と白馬の導きで鞍馬山に登山、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられ、毘沙門天を祀る草庵を結びました。 桓武天皇が長岡京から平安京に遷都してから2年後の延暦15年 (796) 造東寺長官、藤原伊勢人が観世音を奉安する一宇の建立を念願し、夢告と白馬の援けを得て登った鞍馬山には、鑑禎上人の草庵があって毘沙門天が安置されていました。そこで、「毘沙門天も観世音も根本は一体のものである」という夢告が再びあった...
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三室戸寺-京都府宇治市

・三室戸寺 本山修験宗 京都府宇治市菟道滋賀谷21・第九番 ⇒ 西国三十三所 第十番 明星山 三室戸寺 ⇒ 第十一番宝亀元年(西暦770年)のこと、光仁天皇が宮中に毎夜金色の霊光がさし込むのを御覧になって、この奇瑞を大変お喜びになり、右少弁犬養に勅して、霊光の源を尋ねさせられた。 犬養は都に立ち帰り事の始終を天皇に奏上申し上げると、天皇の叡感殊の外深く、早速宮中に尊像をおむかえになつたが、その後、行表禅師を招き、御室をこの地に移して、この尊像を本尊として安置して御室戸寺と称するよう勅されたのである。(リンク先より)<< 戻る
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大信寺-群馬県邑楽郡

・大信寺 浄土宗 群馬県邑楽郡邑楽町篠塚3999-2寺伝によると宝亀年中(770~781)日光の輪王寺を開いた勝道上人が光善寺林(当寺から東南700m)に草庵を結んで修業し、光善精舎と号してこの地方の仏教教化につとめたという。(リンク先より) << 戻る
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粉河寺-和歌山県紀の川市

・粉河寺 粉河観音宗 和歌山県紀の川市粉河2787・第二番 ⇒ 西国三十三所 第三番 風猛山 粉河寺 ⇒ 第四番奈良時代末 宝亀元年(770)の開創。当時、紀伊国那賀郡に住む 猟師大伴孔子古は、いつも幽谷の樹幹に足場を定めて、夜ごと猪や 鹿を狙っていたが、ある晩、光明輝く地を発見、発心してその場所に柴の庵を建てた。(リンク先より) << 戻る
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紀三井寺-和歌山県和歌山市

・紀三井寺 救世観音宗 和歌山県和歌山市紀三井寺1201・第一番 ⇒ 西国三十三所 第二番 紀三井山 金剛宝寺 (紀三井寺)⇒ 第三番奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。 そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地...
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道鏡が下野に流される

770年、道鏡が下野(しもつけ/栃木県)に流される。<< 戻る
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阿倍仲麻呂が唐で客死する

770年、阿倍仲麻呂が唐で客死する。<< 戻る
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宝禅寺-群馬県前橋市

・宝禅寺 天台宗 群馬県前橋市上泉町1277-1当寺は、神護慶雲元年(767年)下野国の生まれで日光を開いた勝道上人が開基したと伝えられています。この年号をもちいて寺の名称を神護山無量寿院寶禅寺と称したとされている。 明治時代の神仏分離までは、上泉村鎮守七社大神(現:諏訪神社)の別当寺院であったことから、別名「仏神様」と呼ばれ親しまれている。(リンク先より) << 戻る
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輪王寺-栃木県日光市

・輪王寺 天台宗 栃木県日光市山内2300日光山は天平神護二年(766年)に勝道上人(しょうどうしょうにん)により開山されました。以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられ、鎌倉時代には源頼朝公の寄進などが行われ、関東の一大霊場として栄えました。(リンク先より) << 戻る
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愛宕念仏寺-京都府京都市右京区

・愛宕念仏寺 天台宗 京都府京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2-5奈良時代・天平神護二年(766)に、聖武天皇の娘の称徳天皇によって現在の東山松原通の地に寺が建立されます。 当時はこの地を、山城国愛宕郡(おたぎごうり)と言いましたが、この寺も愛宕の地に最初に建てられたので愛宕寺と名付けられました。(リンク先より) << 戻る
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西大寺-奈良県奈良市

・西大寺 真言律宗 奈良県奈良市西大寺芝町1-1-5天平宝字8年(764)9月11日、藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱の発覚に際して、孝謙上皇はその当日に反乱鎮圧を祈願して、『金光明経』などに鎮護国家の守護神として登場する四天王像を造立することを誓願されました。翌年の天平神護元年(765)に孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、誓いを果たして金銅製の四天王像を鋳造されました。これが西大寺のそもそものおこりです。(リンク先より) << 戻る
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道鏡が太政大臣となる

765年、僧の道鏡が太政大臣禅師となり、権力をふるう。僧の力の台頭、政治に口出し。<< 戻る
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鑑真(がんじん)

鑑真とは、中国(唐)から6度の航海の末に来日し、東大寺に戒壇を開き、律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされる中国人僧侶です。揚州江陽県に生まれ、14歳で智満について得度し、18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、律宗・天台宗を学びます。鑑真は「四分律」に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされています。日本から唐に渡った留学僧・栄叡、普照は授戒できる僧10人を招請するため唐に渡り、742年、戒律の僧として高名で揚州の大明寺の住職であった鑑真のもとを訪れます。栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけますが、危険な...
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普門院-岡山県赤磐市

・普門院 真言宗御室派 岡山県赤磐市山口990当寺院は、奈良時代中期、報恩大師により開山と伝えられております。 備前四十八カ寺の一つとされ、開山当時は伽藍千有余・僧坊一千宇を数えました。(リンク先より) ご本尊: 十一面千手観世音菩薩開山: 760(天平宝字4)年<< 戻る
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唐招提寺-奈良県奈良市

・唐招提寺 律宗 奈良県奈良市五条町13-46鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。(リンク先より) << 戻る