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大槻玄沢(おおつきげんたく)

  一関藩出身の江戸時代後期の蘭学者。諱は茂質、字は子煥。出身地の磐井から磐水と号す。『解体新書』の翻訳で有名な杉田玄白・前野良沢の弟子。「玄沢」とは、師である2人から一文字ずつもらってつけ ...

大田南畝(おおたなんぽ)

  天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。 勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文 ...

小田野直武(おだのなおたけ)

  江戸時代中期の画家。秋田藩士。通称を武助。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。 生誕 寛延2年12月11日(1750年1月18日) 命日 安永9年5月17日(178 ...

大岡忠相(おおおかただすけ)- 大岡越前

  江戸時代中期の幕臣・大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守・大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房 ...

尾形光琳(おがたこうりん)

  江戸時代の画家、工芸家。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。また、実弟の ...

大石内蔵助(おおいしくらのすけ)

  江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。元禄15年、赤穂四十七士を率いて吉良邸に討ち入り、吉良義央ほか二十余名を斬殺した。大石らは自ら出頭し(寺坂信行を除く)、公儀の裁きに処分を委ね ...

織田信雄(おだのぶかつ)

  安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称され ...

大久保長安(おおくぼながやす/ちょうあん)

  戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。甲斐武田氏、次いで徳川氏の家臣。後に江戸幕府勘定奉行、老中となった。 生誕 天文14年(1545年) 命日 慶長18年4月25日(1613年6月1 ...

織田信孝(おだのぶたか/のぶのり)

  安土桃山時代の武将、大名。織田信長の三男。伊勢国北部を支配していた豪族(国衆)神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸信孝(かんべ のぶたか)とも名乗った。 生誕 永禄元年4月4日(1 ...

お市の方(おいちのかた)

  お市の方は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。小谷の方、小谷殿とも称される。名は通説では「於市」で、「市姫」とも云い、『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている ...

織田信長(おだのぶなが)

  戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。三英傑の一人。全国統一を推し進めた。 尾張の清洲の城主で1560年に桶狭間の戦いで今川義元をやぶった後、急激に勢力を強めた。1568年、 ...

織田信忠(おだのぶただ)

  戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田信長から生前に家督を譲られ、後継者と認められた。織田家当主二代目となる。武田氏を滅亡させた直後に本能寺の変で父・信長は本能寺、信忠は新二 ...

織田信長、高野攻め

天正九年(1581年)、織田信長、高野攻め。 高野山は比叡山と同じように、独自の武力を蓄えていた。寺領は17万石以上あり、3万6千の兵を養っていたと記されている。高野山が織田信長を裏切った荒木村重の残 ...

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織田信長 比叡山延暦寺の焼き討ち

1571年、織田信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを行い、一向一揆をしずめる。 << 戻る

織田信行(おだのぶゆき)

  戦国時代の尾張の武将。同時代史料に見える諱は信行ではなく、信勝、達成、信成である。父は織田弾正忠家の織田信秀、母は土田御前で織田信長の同母弟である。 信行は、父の信秀の生前から尾張国内に ...

大内義隆(おおうちよしたか)

  戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。 周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主 。第15代当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官 ...

太田道灌(おおたどうかん)

  室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名である。 ...

蓮如、はじめて『御文』を書く

1461(寛正二)年3月、蓮如、はじめて『御文』を書いて門徒を教化(47歳)。 << 戻る

踊り念仏の始まり(おどりねんぶつ)

弘安2年(1279年)、信濃国佐久、小田切の里では、集まった時衆(人々)と念仏を唱えていたところ、一遍上人をはじめ時衆らが踊りだしました。これが踊り念仏の始まりです。一遍上人の踊り念仏は、激しい踊りに ...

「正法眼蔵」王索仙陀婆(おうさくせんだば)

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『典座教訓』19、親心は無償の心

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大谷廟堂が破却される

1227年(嘉禄3年)、比叡山の衆徒が大谷廟堂を破却する。 << 戻る

大原談義

文治2(1186)年の秋、洛北大原の魚山大原寺勝林院で天台座主の職にあった顕真法印の発起により、南都、北嶺の名僧学匠三百余人を相手として、法然上人は念仏の教えについて論議された大原談義(大原問答)が行 ...

『往生要集』(おうじょうようしゅう)

  平安時代の中ごろにあたる985年、源信(げんしん)(恵心僧都・えしんそうず)の書いた1部3巻からなる仏教書。極楽浄土のすばらしさと念仏往生(ねんぶつおうじょう)の方法をのべたものです。こ ...

黄檗希運(おうばくきうん)

0850/01/01   -人物
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  中国唐代の禅僧。諡は断際禅師。福州閩県の出身。百丈懐海に就いて嗣法。弟子には 臨済義玄、裴休がいる。黄檗山黄檗寺を開創。『黄檗希運禅師伝心法要』 生誕  命日 大中4年(850年) << ...

大伴家持(おおとものやかもち)

  奈良時代の公卿・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和 ...

『法句経』ダンマパダ【 第11章 老いること 】

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『法句経』ダンマパダ【 第5章 愚かな人 】

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スッタニパータ【第4 八つの詩句の章】6、老い

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オッカーカ王(イクシュヴァーク王/甘蔗王)

オッカーカ王とは、インド古代の伝説的なアヨーディヤー王で、日種の祖であり、釈迦族の祖です。また、コーサラ国もこの王の末裔を自称しています。漢訳仏典では甘蔗王(かんしょおう)と呼ばれます。 『リグ・ヴェ ...

釈迦(しゃか)

  釈迦とは、北インドの人物で、仏教の開祖です。お釈迦様と呼ばれる他、いくつもの呼び名があります。主なものは、ゴータマ・シッダッタ、ブッダ、世尊、釈尊、釈迦牟尼、釋迦。如来十号には、如来・応 ...



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