仏教を本気で学ぶ

徳川家康、教如に京都烏丸七条の寺地を寄付(東西本願寺分立)

1602(慶長七)年2月、徳川家康、教如に京都烏丸六条の寺地を寄付(東西本願寺分立)。東西本願寺分立に至るまでの大きな分岐点としては、1591(天正十九)年、豊臣秀吉の京都市街経営計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は七条堀川の現在地を選び、ここに寺基を移すことに決められた。阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した1592(文禄(ぶんろく)元)年、上人は積年の疲労で倒れられ、50歳で往生された。長男・教如(きょうにょ)上人が跡を継がれたが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた譲状(ゆずりじょう)があったので、教如上人は隠退して裏方(うらかた)と呼ばれた。これには大坂本願寺の退去に...
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丹羽長秀(にわながひで)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の宿老。朝廷より惟住(これずみ)の姓を賜ったので惟住長秀ともいう。羽柴越前守とも称した。生誕 天文4年9月20日(1535年10月16日)命日 天正13年4月16日(1585年5月15日)総光寺大隣宗徳<< 戻る
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新田義貞(にったよしさだ)

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。元弘3年(1333)3月、後醍醐天皇の綸旨(蔵人が天皇の命を受けて発給した文書)を受けた義貞は、幕府が派遣した楠木正成追討軍を密かに抜け出て帰国しました。義貞は、幕府徴税使を斬って討幕の決意を固め、5月8日、生品明神(新田町市野井)の社前に討幕の兵を挙げ、鎌倉攻めを開始しました。義貞軍は、小手指原(埼玉県所沢市)・久米川(東京都東村山市)・分倍河原(東京都府中市)での戦いを経て、同月18日、兵を巨福呂坂・化粧坂・極楽寺坂の三手に分けて鎌倉市中攻撃を始めましたが、幕府の守りも固く、攻防一進一退を繰り返す中...
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日興(にっこう)

鎌倉時代の僧侶。日蓮の高弟六老僧の一人であり、白蓮阿闍梨と称する。日興門流の祖。富士大石寺の開山にして、日蓮正宗第二祖に列せられる。日興が日蓮のもとに赴いたのは、弘長元年(1261年)、日蓮が伊豆の伊東に流罪された時と伝えられる(日精『家中抄』)。日興は伊東において日蓮に給仕しただけでなく、周辺への弘教にも努力し、熱海の真言僧を折伏して日蓮の門下とした(日亨『富士日興上人詳伝』)。弘長3年(1263年)2月、日興は流罪を赦免された日蓮に従って鎌倉に入った。鎌倉での日蓮の活動拠点は松葉ヶ谷の草庵であり、日興もそこで日興より前に日蓮門下となっていた日昭・ 日朗らと共に日蓮に仕えながら日蓮の教化を受...
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日什上人、比叡山での修行

日什上人は15歳の時相次いで両親を亡くされ、1333年(正慶2年)19歳の時に出家して比叡山横川の慈遍僧正(吉田兼好の兄)のもとに入室・出家し、名を玄妙と改めて勉学修行を行いました。1352年(文和元年)38歳の時、比叡山学頭に抜擢され、玄妙能化(師範・教授)となった。<< 戻る
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日像上人 妙顕寺を創建

元亨元年(1321)、日像上人によって妙顕寺は創建されました。洛中における日蓮宗最初の寺院です。日像上人は追放や迫害といった数々の法難を乗り越え、粘り強い布教を続け、後醍醐天皇より法華経布教の勅旨を賜り、宗門の教線拡大の礎を築きました。<< 戻る
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忍性(にんしょう)

鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧侶。 房名(通称)は良観。良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)とも呼ばれます。 貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力したことで知られます。建保5年(1217)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅町)で生まれました。早くに亡くした母の願いをうけて僧侶となり、西大寺の叡尊(えいそん)を師として、真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をしました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話(『元亨釈書』等)には、慈悲深く意志の強い忍性の人柄がうかがえます。後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興と社...
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日蓮聖人(にちれんしょうにん)

鎌倉時代の仏教の僧侶。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗の宗祖。鎌倉での宗教活動を理由に、得宗北条時宗によって佐渡に流罪にされます。滅後に皇室から日蓮大菩薩と立正大師の諡号を追贈されました。日蓮は、1222年2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・千葉県安房郡天津小湊町)の小湊で誕生しました。幼名は善日麿であったと伝えられている。1233年、12歳のとき、父母の元を離れ、生家近くの天台宗清澄寺(現在は日蓮宗)にのぼり道善房に師事します。薬王丸(やくおうまる)と改名し、四年間仏修行に励みました。そして虚空蔵菩薩に「日本一の智者となしたまへ」と祈願されました。1237年、16歳のとき...
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日蓮聖人 立教開宗

建長5(1253)年4月28日早朝、清澄山の旭森(あさひがもり)山頂に立ち、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と、初めてお題目を唱え立教開宗宣言をしました。このとき32歳、同時に名を「日蓮」と改めました。<< 戻る
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「正法眼蔵」如来全身(にょらいぜんしん)

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『正法眼蔵随聞記』8、人法門を問う

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天童如浄(てんどうにょじょう)

中国・宋時代の禅僧。明州鄞県葦江の出身。俗姓は兪。字は長翁。雪竇智鑑に就いて嗣法。弟子には道元禅師がいる。天童山景徳寺第31世住職。『如浄禅師語録』がある。嘉定17年(1224年)に天童山景徳寺の住職となる。宝慶元年(1225年)から宝慶3年(1227年)まで道元禅師は如浄の元で学ぶ。宝慶元年の夏安居の期間に大悟した道元に如浄は印可を授けている。如浄は権勢より離れ、世俗化した当時の仏教について根本から批判し、釈迦牟尼仏の頃の本来の精神に立ち帰ることを唱えた。如浄の教えは、道元禅師による日本曹洞宗開宗の基礎の形成に大きな役割をになっていた。生誕 隆興元年7月7日(1163年8月8日)命日 紹定元...
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仁海(にんがい)

平安時代中期の真言宗の僧。父は宮道惟平。和泉国の出身。小野僧正・雨僧正・雨海僧正とも称される。真言宗小野流の祖。7歳から高野山で雅真に師事し、のちに元杲 (げんごう) から伝法灌頂を受けた。小野に曼荼羅寺を開いて修法し、弟子も多く盛んであった。治安3 (1023) 年東寺の二の長者、長元2 (29) 年東大寺別当、長暦2 (38) 年僧正に任命された。生誕 天暦5年(951年)命日 永承元年5月16日(1046年6月22日)<< 戻る
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如宝(にょほう)

奈良時代から平安時代にかけての律宗の渡来僧。 胡国(西域と考えられている)の人で、鑑真の随員として日本を訪れた。鑑真死後に唐招提寺の長老となる。754年(天平勝宝6年)2月、鑑真と共に平城京に入る。同年4月、東大寺大仏殿前で盛大な受戒の儀が行われた際、如法も受戒して正規の僧となり、僧籍は薬師寺に置かれた。生誕 不明命日 弘仁6年1月7日(815年2月19日)<< 戻る
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スッタニパータ【第3 大いなる章】12、二種の観察

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お釈迦様がクシナガラで入滅

紀元前485年2月15日(インド)仏教の開祖、お釈迦様(ゴータマ・シッダッタ)がクシナガラで入滅しました。(諸説あり。この年表では565年誕生説に基づいて以降の出来事を記述しています。)<< 戻る