【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」発菩提心(ほつぼだいしん)

投稿日:1244年2月14日 更新日:

西国高祖曰、雪山喩大涅槃(雪山を大涅槃に喩ふ)。
しるべし、たとふべきをたとふ。たとふべきといふは、親曽なるなり、端的なるなり。いはゆる雪山を拈来するは喩雪山なり。大涅槃を拈来する、大涅槃にたとふるなり。

震旦初祖曰、心々如木石。
いはゆる心は心如なり。尽大地の心なり。このゆゑに自他の心なり。尽大地人および尽十方界の仏祖および天、龍等の心々は、これ木石なり。このほかさらに心あらざるなり。この木石、おのれづから有、無、空、色等の境界に籠籮せられず。この木石心をもて発心修証するなり、心木心石なるがゆゑなり。

この心木心石のちからをもて、而今の思量箇不思量底は現成せり。心木心石の風声を見聞するより、はじめて外道の流類を超越するなり。それよりさきは仏道にあらざるなり。

大証国師曰、牆壁瓦礫、是古仏心。
いまの牆壁瓦礫、いづれのところにかあると参詳看あるべし。是什麼物恁麼現成と問取すべし。古仏心といふは、空王那畔にあらず。粥足飯足なり、草足水足なり。かくのごとくなるを拈来して、坐仏し作仏するを、発心と称ず。

おほよそ発菩提心の因縁、ほかより拈来せず、菩提心を拈来して発心するなり。菩提心を拈来するといふは、一茎草を拈じて造仏し、無根樹を拈じて造経するなり。いさごをもて供仏し、漿をもて供仏するなり。一摶の食を衆生にほどこし、五茎の花を如来にたてまつるなり。他のすすめによりて片善を修し、魔に嬈せられて礼仏する、また発菩提心なり。しかのみにあらず、知家非家、捨家出家、入山修道、信行法行するなり。造仏造塔するなり。読経念仏するなり。為衆説法するなり、尋師訪道するなり。跏趺坐するなり、一礼三宝するなり、一称南無仏するなり。

かくのごとく、八万法蘊の因縁、かならず発心なり。あるいは夢中に発心するもの、得道せるあり、あるいは醉中に発心するもの、得道せるあり。あるいは飛花落葉のなかより発心得道するあり、あるいは桃花翠竹のなかより発心得道するあり。あるいは天上にして発心得道するあり、あるいは海中にして発心得道するあり。これみな発菩提心中にしてさらに発菩提心するなり。身心のなかにして発菩提心するなり。諸仏の身心中にして発菩提心するなり、仏祖の皮肉骨髓のなかにして発菩提心するなり。

しかあれば、而今の造塔造仏等は、まさしくこれ発菩提心なり。直至成仏の発心なり、さらに中間に破廃すべからず。これを無為の功徳とす、これを無作の功徳とす。これ真如観なり、これ法性観なり。これ諸仏集三昧なり、これ得諸仏陀羅尼なり。これ阿耨多羅三藐三菩提心なり、これ阿羅漢果なり、これ仏現成なり。このほかさらに無為無作等の法なきなり。

しかあるに、小乗愚人いはく、造像起塔は有為の功業なり。さしおきていとなむべからず。息慮凝心これ無為なり、無生無作これ真実なり、法性実相の観行これ無為なり。かくのごとくいふを、西天東地の古今の習俗とせり。

これによりて、重罪逆罪をつくるといへども造像起塔せず、塵労稠林に染汚すといへども念仏読経せず。これただ人天の種子を損壊するのみにあらず、如来の仏性を撥無するともがらなり。まことにかなしむべし、仏法僧の時節にあひながら、仏法僧の怨敵となりぬ。

三宝の山にのぼりながら空手にしてかへり、三宝の海に入りながら空手にしてかへらんことは、たとひ千仏万祖の出世にあふとも、得度の期なく、発心の方を失するなり。これ経巻にしたがはず、知識にしたがはざるによりてかくのごとし。おほく外道邪師にしたがふによりてかくのごとし。

造塔等は発菩提心にあらずといふ見解、はやくなげすつべし。心をあらひ、身をあらひ、みみをあらひ、めをあらうて見聞すべからざるなり。まさに仏経にしたがひ、知識にしたがひて、正法に帰し、仏法を修学すべし。

仏法の大道は、一塵のなかに大千の経巻あり、一塵のなかに無量の諸仏まします。一草一木ともに身心なり。万法不生なれば一心も不生なり、諸法実相なれば一塵実相なり。しかあれば、一心は諸法なり、諸法は一心なり、全身なり。

造塔等もし有為ならんときは、仏果菩提、真如仏性もまた有為なるべし。真如仏性これ有為にあらざるゆゑに、造像起塔すなはち有為にあらず、無為発菩提心なり、無為無漏の功徳なり。ただまさに、造像起塔等は発菩提心なりと決定信解すべきなり。億の行願、これより生長すべし、億々万くつべからざる発心なり。これを見仏聞性といふなり。

しるべし、木石をあつめ泥土をかさね、金銀七宝をあつめて造仏起塔する、すなはち一心をあつめて造塔造像するなり。空々をあつめて作仏するなり、心々を拈じて造仏するなり。塔々をかさねて造塔するなり、仏々を現成せしめて造仏するなり。

かるがゆゑに、経にいはく、作是思惟時、十方諸仏皆現。
しるべし、一思惟の作仏なるときは、十方思惟仏皆現なり。一法の作仏なるときは、諸法作仏なり。

釈迦牟尼仏言、明星出現時、我与大地有情、同時成道。
しかあれば、発心修行、菩提涅槃は、同時の発心、修行、菩提、涅槃なるべし。仏道の身心は草木瓦礫なり、風雨水火なり。これを巡らして仏道ならしむる、すなはち発心なり。虚空を撮得して造塔造仏すべし。溪水を掬啗して造仏造塔すべし。これ発阿耨多羅三藐三菩提なり。一発菩提心を百千万発するなり。修証もまたかくのごとし。

しかあるに、発心は一発にしてさらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なりとのみきくは、仏法をきくにあらず、仏法をしれるにあらず、仏法にあふにあらず。千億発の発心は、さだめて一発心の発なり。千億人の発心は、一発心の発なり。一発心は千億の発心なり、修証転法もまたかくのごとし。草木等にあらずはいかでか身心あらん、身心にあらずはいかでか草木あらん、草木にあらずは草木あらざるがゆゑにかくのごとし。

坐禅弁道これ発菩提心なり。発心は一異にあらず、坐禅は一異にあらず、再三にあらず、処分にあらず。頭々みなかくのごとく参究すべし。草木七宝をあつめて造塔造仏する始終、それ有為にして成道すべからずは、三十七品菩提分法も有為なるべし。三界人天の身心を拈じて修行せん、ともに有為なるべし、究竟地あるべからず。

草木瓦礫と四大五蘊と、おなじくこれ唯心なり、おなじくこれ実相なり。尽十方界、真如仏性、おなじく法住法位なり。真如仏性のなかに、いかでか草木等あらん。草木等、いかでか真如仏性ならざらん。諸法は有為にあらず、無為にあらず、実相なり。実相は如是実相なり、如是は而今の身心なり。この身心をもて発心すべし。水をふみ石をふむをきらふことなかれ。ただ一茎草を拈じて丈六金身を造作し、一微塵を拈じて古仏塔廟を建立する、これ発菩提心なるべし。見仏なり、聞仏なり。見法なり、聞法なり。作仏なり、行仏なり。

釈迦牟尼仏言、優婆塞優婆夷、善男子善女人、以妻子肉供養三宝、以自身肉供養三宝。諸比丘既受信施、云何不修(優婆塞優婆夷、善男子善女人、妻子の肉を以て三宝に供養し、自身の肉を以て三宝に供養すべし。諸の比丘既に信施を受く、云何が修せざらん)。

しかあればしりぬ、飲食衣服、臥具醫薬、僧房田林等を三宝に供養するは、自身および妻子等の身肉皮骨髓を供養したてまつるなり。すでに三宝の功徳海にいりぬ、すなはち一味なり。すでに一味なるがゆゑに三宝なり。

三宝の功徳すでに自身および妻子の皮肉骨髓に現成する、精勤の弁道功夫なり。いま世尊の性相を挙して、仏道の皮肉骨髓を参取すべきなり。いまこの信施は発心なり。受者比丘、いかでか不修ならん。頭正尾正なるべきなり。これによりて、一塵たちまちに発すれば一心したがひて発するなり、一心はじめて発すれば一空わづかに発するなり。

おほよそ有覚無覚の発心するとき、はじめて一仏性を種得するなり。四大五蘊を巡らして誠心に修行すれば得道す、草木牆壁を巡らして誠心に修行せん、得道すべし。四大五蘊と草木牆壁と同参なるがゆゑなり、同性なるがゆゑなり。同心同命なるがゆゑなり、同身同機なるがゆゑなり。

これによりて、仏祖の会下、おほく拈草木心の弁道あり。これ発菩提心の様子なり。五祖は一時の栽松道者なり、臨済は黄檗山の栽杉松の功夫あり。洞山には劉氏翁あり、栽松す。かれこれ松栢の操節を拈じて、仏祖の眼睛を抉出するなり。これ弄活眼睛のちから、開明眼睛なることを見成するなり。造塔造仏等は弄眼睛なり、喫発心なり、使発心なり。

造塔等の眼睛をえざるがごときは、仏祖の成道あらざるなり。造仏の眼睛をえてのちに、作仏作祖するなり。造塔等はつひに塵土に化す、真実の功徳にあらず、無生の修練は堅牢なり、塵埃に染汚せられずといふは仏語にあらず。塔婆もし塵土に化すといはば、無生もまた塵土に化するなり。無生もし塵土に化せずは、塔婆また塵土に化すべからず。遮裡是甚麼処在、説有為無為なり。

経云、
菩薩於生死、最初発心時、一向求菩提、堅固不可動(菩薩生死に於て最初に発心せん時、一向に菩提を求む、堅固にして動かすべからず)。

彼一念功徳、深広無涯際、如来分別説、窮劫不能尽(彼の一念の功徳、深広無涯際なり、如来分別して説きたまひ、を窮むるも尽すこと能はじ)。

あきらかにしるべし、生死を拈来して発心する、これ一向求菩提なり。彼一念は一草一木とおなじかるべし、一生一死なるがゆゑに。しかあれども、その功徳の深も無涯際なり、広も無涯際なり。窮劫を言語として如来これを分別すとも、尽期あるべからず。海かれてなほ底のこり、人は死すとも心のこるべきがゆゑに不能尽なり。彼一念の深広無涯際なるがごとく、一草一木、一石一瓦の深広も無涯際なり。一草一石もし七尺八尺なれば、彼一念も七尺八尺なり、発心もまた七尺八尺なり。

しかあればすなはち、入於深山、思惟仏道は容易なるべし、造塔造仏は甚難なり。ともに精進無怠より成熟すといへども、心を拈来すると、心に拈来せらるると、はるかにことなるべし。かくのごとくの発菩提心、つもりて仏祖現成するなり。

正法眼蔵発菩提心第六十三

爾時寛元二年甲辰二月十四日在越州吉田県吉峰精舎示衆
弘安二年己卯三月十日在永平寺書写之 懐奘

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。より分かりやすくする為に漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

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