眼睛とは、眼球、まなこ、目の玉のことですが、禅宗では最も重要なことの意味として使われる言葉です。禅の本質のことを表します。
・「且道すらくは、瞿曇眼睛はただ一二三のみにあらず。いま打失するはいづれの眼睛なりとかせん。打失眼睛と称ずる眼睛のあるならん。さらにかくのごとくなるなかに、雪裡梅花只一枝なる眼睛あり。はるにさきだちて、はるのここを漏泄するなり。」(「正法眼蔵」眼睛)
・「打得し了って之を護惜すること眼睛の如くせよ。保寧の勇禅師曰く、「眼睛なる常住物を護惜せよ」と。 之を敬重すること御饌草料の如くせよ。」(『典座教訓』2、心が整えば味も整う)
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