buddhism

仏教を本気で学ぶ

『盂蘭盆経』(うらぼんきょう)

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人物

師子菩提(ししぼだい)

6世紀頃のインドの仏教僧。鶴勒那に就いて嗣法。弟子には婆舎斯多がいる。梵語(サンスクリット語)でĀryasimha(アーリヤシンハ)、意訳して師子、獅子とも表記されます。インド西北部にあった罽賓国(けいひんこく)で布教をしていた時、檀弥羅王(だんみらおう)は仏教を弾圧し、多くの衆僧を殺害しました。王は師子菩提の首を斬りましたが、血が出ずに白乳が涌くように出ると同時に、王の右臂が刀を持ったまま地に落ち、7日後に亡くなったといいます。生誕 命日 << 戻る
人物

鶴勒那(かくろくな)

月氏国のバラモンの家系に生まれました。摩拏羅に就いて嗣法。弟子には師子菩提がいる。梵語(サンスクリット語)でHaklenayaśa(ハクレーナヤシャ)といい、鶴勒夜奢、鶴勒とも記述されます。生誕 命日 << 戻る
仏教を本気で学ぶ

ナーランダ/ナーランダ大学

ナーランダ大学とは、427年に建てられた世界最古の大学であったと考えられており、インド仏教の最重要拠点であった僧院です。5世紀初頭のインド、グプタ王朝のクマーラグプタ1世(シャークラ・ディティヤ王)が創建しました。ナーランダは「蓮のある場所」「知識の提供者」という意味です。それから12世紀ごろまで栄え、数千人の僧侶が学んでいたと伝えられ、多い時には1万人の学僧が集まったという記述もあります。現在はその一部が発掘、整備され公園になっています。また、ラージギル(王舎城)まで15km、ブッダガヤまで82kmほどという位置関係です。下の写真は、この地方出身と伝えられるブッダ十大弟子の1人であるサーリプ...
年表

倭王讃(仁徳天皇?)が、宋に使者を送る

421年、倭王讃(仁徳天皇?)が、宋に使者を送る。<< 戻る
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『梵網経』(ぼんもうきょう)

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人物

摩拏羅(まぬら)

世親/婆修盤頭に就いて嗣法。弟子には鶴勒那がいる。伝法の偈 心随万境転  心は万境に随って転ず転処実能幽  転処実に能く幽なり随流認得性  流れに随って性を認得すれば無喜亦無憂  喜びもなくまた憂いもなし生誕 命日 << 戻る
人物

世親/婆修盤頭(せしん/ばしゅばんず)

インド西北部にあったガンダーラ国(現在のパキスタン、ペシャーワル地方)のバラモンの家系に生まれました。父の名はカウシカ(Kauśika、憍尸迦)、母の名はヴィリンチ(Viriñci、比隣持)。実の兄は無著。鳩摩羅多に就いて嗣法。弟子には摩拏羅がいる。梵語(サンスクリット語)のVasubandhu(ヴァスバンドゥ)の音写で婆修盤頭、婆薮般豆、婆薮般頭と記述されることがありますが、一般的には意訳された世親、天親も知られた名前です。唯識思想を大成し、以降の仏教において大きな潮流となりました。著作には『阿毘達磨倶舎論』『唯識二十論』『唯識三十頌』『浄土論』他多数。生誕 300年頃命日 400年頃<< ...
年表

大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦う

391年、大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設ける。このころ、朝鮮からの渡来人が多く、百済から織物・彫刻・陶芸などの技術が伝わる。<< 戻る
人物

闍夜多(しゃやた)

インドの仏教僧。鳩摩羅多に就いて嗣法。弟子には世親/婆修盤頭がいる。生誕 命日 << 戻る
人物

鳩摩羅多(くもらた)

kumāralabdha。伽耶舎多に就いて嗣法。弟子には闍夜多がいる。生誕 命日 << 戻る
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敦煌莫高窟

敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)は、敦煌の町の南東方約20kmに4世紀中ごろから13世紀にかけて造営された仏教遺跡です。甘粛省敦煌市内の莫高窟と西千仏洞の総称で甘粛省にある敦煌石窟の代表でもあり、中国佛教の有名な3大石窟の一つです。730余の石窟があり,塑造仏(そぞうぶつ)・壁画などの仏教美術遺品のほか、無数の古写経典や古文書類が発見されています。東西文化交流史上、また中国仏教史上にも重要な存在です。<< 戻る
年表

青岸渡寺 開基

開基は仁徳天皇の時代(350年~450年の間頃)、印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝において修行を積みその暁に滝壷で八寸の金製の如意輪観音を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初です。 << 戻る
年表

補陀洛山寺 開基

開基は仁徳天皇の時代(350年~450年の間頃)、インドから漂着した裸形上人が開いた。 << 戻る
年表

大和朝廷が国内をほぼ統一する

350年、このころ、大和朝廷が国内をほぼ統一する。大和朝廷は、大王(おおきみ・・・のちの天皇)を中心とした豪族の連合政権。氏と姓にもとづく政治→氏姓制度<< 戻る
年表

古墳文化

350年前後、各地に古墳がつくられる(前方後円墳・円墳・方墳)。大阪府堺市の仁徳陵古墳(大山古墳)は日本最大。前方後円墳は日本独特の形。埴輪。<< 戻る
年表

朝鮮に高句麗・百済・新羅の三国が成立

350年、朝鮮に高句麗・百済・新羅の三国が成立。<< 戻る
人物

伽耶舎多(かやしゃた)

4世紀頃、西域の摩提国(まだいこく)出身の仏教僧。僧伽難提に就いて嗣法。弟子には鳩摩羅多がいる。總持寺関連の書物では「迦」の文字を採用して「迦耶舎多」としていますが、正法眼蔵の各巻では「伽耶舎多」表記を採用しているようです。生誕 命日 << 戻る
人物

僧伽難提(そうぎゃなんだい)

4世紀頃のインドの仏教僧。室羅閥城(しらばつじょう/舎衛城/シュラーヴァスティー)の宝荘厳王(ほうしょうごんおう)の王子。羅睺羅多に就いて嗣法。弟子には伽耶舎多がいる。生誕 命日 << 戻る
便り

天童寺-浙江省寧波市鄞州区

・天童寺 中国・浙江省寧波市鄞州区天童寺(てんどうじ)は、300年(西晋の永康元年)遊行僧の義興により創建されたと伝えられ、唐の初年、現在の位置に移ったと言われている。天童禅寺、天童山景徳禅寺、太白山天童景徳寺とも呼ばれ、東南佛国とも称される禅宗寺院。道元禅師が当寺の住持である如浄禅師から正伝の仏法を受け継いだことから、日本の曹洞宗は天童寺を祖庭としている。<< 戻る
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『般若心経』(はんにゃしんぎょう)

『般若心経』は、正式には『般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)』といい、さらに略して『心経(しんぎょう)』と呼ばれることもあります。サンスクリット語では、प्रज्ञापारमिताहृदय(Prajna-paramita-hṛdaya、プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)で、現在一般的に広まっているのは玄奘三蔵が漢訳した『般若心経』(掲載のもの)です。成立年代や成立場所がはっきりしていないものの紀元後300年から400年の間にインド文化圏で成立したと考えられています。なお、現存するテキストで最古のものは、鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳した『摩訶般若波羅蜜大明呪経』一巻で、402...
人物

羅睺羅多(らごらた)

インドの仏教僧。迦那提婆に就いて嗣法。弟子には僧伽難提がいる。Rāhulabhadra(ラーフラバドラ)、羅睺羅(らごら)、羅睺羅跋陀羅(らごらばっだら)とも表記されます。生誕 200年頃命日 300年頃<< 戻る
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『正法華経』

286年、『法華経』の梵語(サンスクリット語)を竺法護(中国・西晋時代の西域僧)が『正法華経』10巻26品に漢訳する。<< 戻る
年表

晋が中国を統一

280年、晋が中国を統一(~316)。<< 戻る
人物

迦那提婆(かなだいば)

3世紀頃のインドの仏教僧。南インドのバラモンの家庭に生まれました。那伽閼刺樹那(龍樹/ナーガールジュナ)に就いて嗣法。弟子には羅睺羅多がいる。Āryadeva(アーリヤデーヴァ)、提婆、聖提婆とも表記され、伽那提婆という表記もあります(「正法眼蔵」仏祖)。著作に『百論』、『四百論』。南インドで外道に帰依していた王を論破したり、邪道の論師を多数論破したが、その弟子の一人に恨まれて殺されてしまう。しかし、命が終わる前に到っても、その外道の愚かさをあわれみ、自分を殺そうとした者をも救ったといわれます。生誕 170年頃命日 270年頃<< 戻る
人物

孫権(そんけん)

孫権は、後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。三国時代の呉の初代皇帝。字は仲謀。呉の礎を築いた父の孫堅、勇猛で恐れられた兄の孫策を相次いで亡くし、19才で孫氏の当主となる。父や兄から引き継いだ家臣団をまとめ、積極的な人材登用を行い、政権を充実させた。208年、曹操が15万の軍で呉へ攻め込もうとした赤壁の戦いでは、孫権軍の策略にかかり曹操軍の軍船は火攻めに遭い撤退。その後、孫権は荊州の大部分を奪った。荊州の奪取によって劉備と敵対した孫権は、後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国した曹丕の皇帝位を承認し、形だけ臣下の礼をとり呉王になった。北方の安全を確保し、222年、荊州奪還のために進軍してきた劉備...
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龍樹(ナーガールジュナ)

南インド出身の仏教僧。バラモンの家系に生まれましたが出家して仏教僧となりました。梵語(サンスクリット語)で नागार्जुन、Nāgārjuna、ナーガールジュナといい、漢訳名では、音写で那伽閼刺樹那(なぎゃはらじゅな)、意訳で龍樹(りゅうじゅ)、龍勝(りゅうしょう)、龍猛(りゅうみょう)。著作とされるものに『中論』『十二問論』『大智度論』『十住毘婆沙論』等。竜樹。特に『中論』において確立された空の思想は、以後、全ての大乗仏教思想に最大の影響を与え、その学派は後世、中観派(ちゅうがんは)と呼ばれるようになりました。伝承的な部分が多く、龍樹が書いたという書物も多いですが、古来から現代までの研究...
人物

曹叡(そうえい)

三国時代の魏の第2代皇帝。生誕 建安9年(204年)もしくは建安11年(206年)命日 景初3年1月1日(239年1月22日)<< 戻る
年表

邪馬台国の卑弥呼が中国(魏)に使いを送る

239年、邪馬台国の卑弥呼が中国(魏)に使いを送る。邪馬台国は30余国を支配。<< 戻る
人物

諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)

中国後漢末期から三国時代の蜀漢の武将・政治家。字は孔明。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。「伏龍」「臥龍」とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として叔父の豫章太守諸葛玄、同母兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、同母弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕などがいる。生誕 光和4年(...
人物

曹丕(そうひ)

三国時代の魏の初代皇帝。父の曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。著書に『典論』がある。生誕 中平4年(187年) 命日 黄初7年5月17日(226年6月29日)<< 戻る
人物

劉備(りゅうび)

、 - )は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳。黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。生誕 延熹4年(161年)命日 章武3年4月24日(223年6月10日)<< 戻る