buddhism

年表

冠位十二階を定める

603年、冠位十二階を定める。家柄(氏や姓)に関係なく、能力重視の人材登用をすすめた。<< 戻る
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統国寺-大阪府大阪市天王寺区

・統国寺 単立 大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1-31聖徳太子の創建になる名刹で、百済の僧観勒(かんろく・・・・602年に来日し、暦法・天文学・地理学・方術などを伝来し、飛鳥寺にも住し僧正に任ぜられている)が開山住持として招かれ、推古天皇の帰依により厚遇を賜った。寺伝(『邦福寺梵鐘銘文』)には帝が専修念仏して、西山に阿弥陀、観音、勢至の尊姿を感得したのにちなんで、別念仏寺とも称されたとある。(リンク先より) << 戻る
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法隆寺-奈良県生駒郡

・法隆寺 聖徳宗 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1聖徳太子が斑鳩宮を造営されたのは推古天皇9年(601)。ほどなく太子は、ここに亡き父用明天皇のため寺の造立を発願され、推古15年(607)ごろに完成したのが法隆寺です。 太子は中国の優れた政治や文化、とりわけ仏教を積極的に取り入れ、四天王寺、中宮寺、広隆寺などの寺々を建立し、冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣などによって国の発展を計られましたが、惜しくも推古30年(622)49歳のとき、人々の悲嘆の内に薨去されました。(リンク先より)<< 戻る
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慧満(えまん)

中国唐の時代、河南省栄陽の出身。僧那に就いて嗣法。弟子には道昭がいる。隆化寺。慧満の禅の教えを受けた道昭は、その教えを日本に初めてもたらし、国内初の禅院である飛鳥寺の禅院には多くの仏道修行者が訪れ、道昭から禅を教授されたといいます。生誕 命日 << 戻る
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僧那(そうな)

中国唐の時代。慧可に就いて嗣法。弟子には慧満がいる。生誕 命日 << 戻る
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妙見寺-大阪府南河内郡

・妙見寺ホームページ 曹洞宗 大阪府南河内郡太子町大字春日1624推古天皇六年(五九八)蘇我馬子の創建と伝えられ、七堂伽藍を備えた大寺であり、河内の国最初の霊場である。南北朝の乱の兵火で被害を受け焼失するが、寛文年間(一六六一~一六七三)祖浄悦によって再興され、真言宗から曹洞宗に改宗。明治に入り廃仏毀釈運動の煽りを受け、明治六年(一八七三)廃寺となった。しかし、鎌田誓由らが明治十三年(一八八一)に現在の地に妙見寺を再興し、現在に至っている。(リンク先より) << 戻る
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智顗(ちぎ)

智顗とは、中国の南北朝時代から隋にかけての僧侶。天台教学の大成者であり、天台宗の開祖ですが、慧文、慧思に次いで第三祖ともされています(龍樹を開祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖とする場合もある)。天台大師、智者大師ともいいます。その晩年を杭州の南の天台山で過ごし、弟子の養成に努めたことから「天台大師」と諡(おくりな)され、またその教学は天台教学と称されました。これが天台宗の起源であり、智顗を高祖と唱えるのはこのためです。お釈迦様の説いた教えは、東南アジア、ガンダーラからヒマラヤを越えて中央アジアへと広まり、やがて中国へと伝わりました。多くの求法の僧により、数々の経典が中国に伝えられまし...
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如意輪寺-茨城県笠間市

・如意輪寺 天台宗 茨城県笠間市上市原942推古3年(595)、明星輝く明方、豪族 伊知波良氏は嵐によって打ち上げられた木の中に納めてあった仏を感得した。その夜、『欽明帝が願いを掛け木に納め流した佛であり、以後この地においてよく供養すれば願いは意の如くかなう』とのお告げがあった。豪族伊知波良氏は、御堂を建て奉安し供養していた。このことが、時の帝、天武天皇に伝わり、天武天皇9年(680)、天皇の意の如く願いが成就されたので如意寺の勅願が下され秘佛とし勅願寺となったと市原観音縁起は伝えている。(リンク先より) << 戻る
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寂光院-京都府京都市左京区

・寂光院 天台宗 京都府京都市左京区大原草生町676寂光院は天台宗の尼寺で、山号を玉泉寺といい、推古2(594)年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられる。当初の本尊は、聖徳太子御作と伝えられる六万体地蔵尊であったが現存しない。(リンク先より) << 戻る
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妙安寺-茨城県坂東市

・妙安寺 真宗大谷派 茨城県坂東市三村1793歴史を遡ること約1400年。当寺の前身は、推古天皇(594年頃)の勅願により国家鎮護のために、聖徳太子ご創立の霊場として『三論宗最頂院葛城寺(さんろんしゅう さいちょういん かつらぎじ)』として建立されました。(リンク先より) << 戻る
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真福寺-愛知県岡崎市

・真福寺 天台宗 愛知県岡崎市真福寺町字薬師山6推古天皇二年(西暦594年)物部の守屋の次男真福が山の頂きより霊光かがやき端雲たなびくをみて不思議に思い訪れたところ、滾々と湧き出る泉を発見した。しばしたたずんでおられた真福は日頃信仰しておられた薬師如来が水中より顕れ出られ、(是好良薬今留在此)と誦して再び泉の中に姿を消された。これを目の当たりにして非常に感激し末代まで伝えようとして本堂を建立したのが真福寺の始まりである。霊鷲山降劒院真福寺 聖徳太子建立 三河国最古寺院(リンク先より) << 戻る
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石馬寺-滋賀県東近江市

・石馬寺 臨済宗妙心寺派 滋賀県東近江市五個荘石馬寺町823推古2年(西暦594年)、推古天皇の摂政であった聖徳太子が「霊地は近江国にある」と占い、駒の蹄に任せて永久に鎮護国家、仏法興隆を祈る道場を求めていました。そして繖山(きぬがさやま)の麓辺りに来ると、駒は歩みを止めて進まなくなり、傍らの松の樹につないで山に登ったところ、瑞雲がたなびく風光明媚な風景が広がっていたのです。 聖徳太子は「積年の望みをこの地に得たり」と深く感動して再び山を下ると、松の樹につないだ駒が傍の池に沈んで石と化していました。この奇瑞に大いに霊気を感じ、直ちに山を『御都繖山(ぎょとさんざん)』と名付け寺を建立し、馬が石と...
仏教を本気で学ぶ

仏教興隆の詔

594年、推古天皇が仏教を盛んにする詔を出す。これにより仏法僧の三宝を興隆させ、氏寺の建立が盛んになったといわれている。594年という年代は推古2年で、初めての女性天皇である推古天皇のもと、聖徳太子はその摂政(せっしょう)として、大臣の蘇我馬子らの協力により政治を行い、その中でも仏教興隆の詔を公式に出したことで、臣下たちは「各々君親の恩のため競ひて仏舎を造る」(『日本書紀』)ようになったと記録されている。飛鳥時代の仏教は、単なる個人救済を目的としたものではなく、国の君主であったり、家の長である親への報恩の誠を捧げて、国と家の繁栄を祈ることに重点があったと読み取れる。仏教興隆の詔は、三宝興隆の詔...
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慧可(えか)

洛陽虎牢出身。幼名は神光。中国禅宗の二祖。正宗普覚大師。菩提達磨大師に就いて嗣法。弟子には鑑智僧璨、僧那がいる。はじめは儒教や老荘思想を学んだが得心せず、洛陽香山(現在の龍門山)の永穆寺で得度した。出家後は問法のため各地を放浪し、さらに香山に戻り8年間修行を続けたものの、疑念を解明することが出来ず、嵩山の少林寺で面壁していた達磨に面会し弟子入りを請うた。達磨は断ったが慧可はあきらめず、自らの腕を切り落として弟子入りの願いが俗情や世知によるものではない事を示し、入門を許されたと伝えられている(雪中断臂)。・「大師釈尊、霊山会上にして法を迦葉につけ、祖々正伝して、菩提達磨尊者にいたる。尊者、みづか...
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四天王寺-大阪府大阪市天王寺区

・四天王寺 和宗 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開する為に、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。(リンク先より) << 戻る
年表

聖徳太子が推古天皇の摂政となる

593年、聖徳太子(厩戸王)が推古天皇の摂政となる。蘇我馬子と協力して、天皇中心の政治をうちたてようとした。大阪に四天王寺を建てる。<< 戻る
年表

隋が中国を統一

589年、隋(ずい)が中国を統一。<< 戻る
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成福院-奈良県生駒郡

・成福院 信貴山真言宗 奈良県生駒郡平群町信貴山2280信貴山大本山成福院は信貴山総本山朝護孫子寺の塔頭寺院です。信貴山は587年(用明2年)聖徳太子により開山され、塔頭たる成福院の建立時期は不明なものの、後嵯峨天皇とのご縁から1200年代以降と思われ、1577年(天正5年)松永久秀の乱により焼失後、1790年(寛政2年)に再興され現在に至っています。(リンク先より) << 戻る
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清水寺-島根県安来市

・清水寺 天台宗 島根県安来市清水町528用明天皇2年(西暦587年)山城国の住人、尊隆上人によって開かれたお寺です。寺伝によると当時は山深く谷窮まり、老松古柏が鬱蒼と生い茂り、近づく者とてない気味の悪い山であったと。ところが夜になると里に向かって一条の光が現れ、里人を怖がらせていた。 そんな折り、山陰道を巡錫中の尊隆上人が通りかかり、十神山の神の願いを受け、光の源を探るべく山の中腹まで登ってくると、1人の白髪の老人が現れ「今日まで観音様をお祀りしてきたが、そろそろ次の世に往かねばならぬので替わりに観音様をお祀りしてくれる人を探していたと、一体の霊像を託された。尊隆上人が小さな草堂を結んで霊像...
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雨引山楽法寺-茨城県桜川市

・雨引山楽法寺 真言宗豊山派 茨城県桜川市本木雨引1雨引観音は雨引山楽法寺と申し、用明天皇2年(587年)梁の国人の法輪独守居士によって開かれた、厄除延命安産子育の霊験あらたかな延命観世音菩薩(国指定重要文化財)を本尊佛として、おまつり申し上げる坂東観音霊場第二十四番札所の名刹である。(リンク先より) << 戻る
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釈迦尊寺-群馬県前橋市

・釈迦尊寺 曹洞宗 群馬県前橋市元総社町2497-1五八七年 三十一代用明天皇二年蘇我馬子が、物部守屋を滅ぼしたとき物部氏に加担した中臣羽鳥連と妻、玉照姫は上毛野国青海に流罪となる。玉照姫は聖徳太子の乳母にて、太子の守仏、闇浮壇金一寸八分の釈迦尊仏を、太子より授けられる。(リンク先より) 2016年には当寺で三遊亭円楽(6代目)が得度を行っている。<< 戻る
年表

蘇我氏が物部氏を滅ぼす

587年、蘇我氏が物部氏を滅ぼす。豪族の争い。物部氏は飛鳥時代の豪族。大連(おおむらじ)として大和政権の軍事を担当し,強大な勢力をもった。しかし,仏教崇拝に反対し、蘇我氏と対立。587年、物部守屋が蘇我氏にやぶれておとろえた。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

厩戸王(聖徳太子)の誕生

574年、厩戸王(聖徳太子)の誕生。<< 戻る
年表

任那の日本府が滅ぶ

562年、任那の日本府がほろぶ。<< 戻る
年表

青岸渡寺 建立

推古天皇の時代(554年~628年)、大和の生佛上人が来山し、一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した八寸の観音菩薩を胸佛に納め推古天皇の勅願所として正式に本堂が建立された。 << 戻る
仏教を本気で学ぶ

仏教伝来

552年、 百済から仏教が伝わる(538年の説もある)。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

梁の武帝、盂蘭盆斎を設ける

梁の武帝の大同4年(538年)に帝自ら同泰寺で盂蘭盆斎を設けたことが、1269年に南宋の志磐が編纂した『仏祖統紀』に書かれています。
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仏教伝来

538年、 百済から仏教が伝わる(552年の説もある)。<< 戻る
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菩提達磨大師(ぼだいだるまたいし)

お釈迦さまから28代目の祖師である菩提達磨大師は、西インドから中国に至り、大乗仏教をもたらしたインド人僧侶です。震旦初祖、円覚大師とも呼ばれ、達摩と表記される場合もあります。般若多羅尊者に就いて嗣法。弟子には慧可、道育、尼総持、道副がいます。達磨大師の伝記に関しては諸説ありますが、禅宗の伝統的な見解では、中国の梁の時代・普通8(527)年に南海より広州(広東省)に上陸し、梁の都・建康(南京)に来て、武帝(蕭衍)と問答を交わし、帝との機縁がかなわず北に渡り、洛陽(河南省)郊外の嵩山少林寺というところで面壁九年の坐禅を修行され、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏の宗旨を標榜し、禅宗の初祖と仰が...
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般若多羅(はんにゃたら)

不如蜜多に就いて嗣法。第27祖。弟子には菩提達磨がいる。・「第二十七祖般若多羅尊者道、貧道出息不隨衆縁、入息不居蘊界。常転如是経、百千万億巻。非但一巻両巻(貧道は出息衆縁に隨はず、入息蘊界に居せず。常に如是経を転ずること、百千万億巻なり。但一巻両巻のみにあらず)。」(「正法眼蔵」仏経)・「初祖かつて般若多羅尊者のみもとにして、仏訓道骨、まのあたり証伝しきたれり、根源をもて根源を証取しきたれり、枝葉の本とせるところなり。」(「正法眼蔵」葛藤)生誕 命日 << 戻る
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婆舎斯多(ばしゃした)

6世紀頃、カシミール生まれの仏教僧。師子菩提に就いて嗣法。弟子には不如蜜多がいる。生誕 命日 << 戻る
人物

不如蜜多(ふにょみった)

婆舎斯多に就いて嗣法。弟子には般若多羅がいる。生誕 命日 << 戻る