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文永の役

1274年、文永の役。元の大軍が来攻、対馬・壱岐、次いで博多付近に上陸したが、暴風雨によって引き上げた。元寇。<< 戻る
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正伝護国禅寺-京都府京都市北区

・吉祥山正伝護国禅寺 臨済宗南禅寺派 京都府京都市北区西賀茂北鎮守庵町72文応元年(1260)に中国の栄より来朝した、兀菴普寧禅師に師事すること多年、遂にその蘊奥を極められたという。文永十年(1273)に聖護院の静成法印が東巌禅師に帰依し、亀山天皇の勅許を蒙り京都烏丸今出川付近に祭殿一宇を建立したのに始まる。(リンク先より) << 戻る
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一遍上人の遊行

再び修行する決心を固められた一遍上人は、故郷へ戻り、窪寺という閑室にこもり一人念仏三昧されます。この三年間の参籠の間に「十一不二頌じゅういちふにじゅ」(一遍上人の悟り境地を表す漢詩)を感得されました。そして、文永10年(1273)菅生の岩屋寺での参籠を経て、家や土地など一切を捨てた遊行の旅に出られました。同行者は、超一、超二、念仏房、聖戒です。ただし、聖戒とは桜井(愛媛県今治市)で「臨終の時は必ず再会しましょう」と約束して別れています。まず、当時極楽の東門の中心と考えられていた四天王寺を訪れた一遍上人は、本尊に念仏勧進の願を立てて、それを生涯の使命とされました。一遍上人は遊行によって、学問や理...
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西光寺-愛知県愛西市

・【公式サイト】愛西市寺院西光寺 真宗大谷派 愛知県愛西市稲葉本郷200古い寺伝によれば当寺は元天台宗で諦善(文永9年(1272)5月死亡)が創立した。その頃より伝教大師作と言われる聖徳太子立像を安置している。元美濃国の幡長という所にあったが中島郡の三宅村(現平和町)に移ると、当時の領主橋本伊賀守の菩提所となった。(リンク先より) << 戻る
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本願寺(西本願寺)-京都府京都市下京区

・龍谷山 本願寺(西本願寺) 浄土真宗本願寺派 京都府京都市下京区堀川通花屋町下ルもともと、本願寺は、親鸞聖人の廟堂(びょうどう)から発展しました。親鸞聖人が弘長2年11月28日(新暦1263年1月16日)に90歳で往生されると、京都東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔を建て、遺骨をおさめました。 しかし、聖人の墓所はきわめて簡素なものでありましたため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼(かくしんに)さまや、聖人の遺徳を慕う東国の門弟達は寂莫の感を深めました。そこで、10年後の文永9年(1272)に、大谷の西、吉水の北にある地に関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人...
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親鸞聖人の廟堂が建てられ、影像が安置される

1272(文永九)年(冬)、吉水の北に親鸞聖人の廟堂が建てられ、影像が安置される。<< 戻る
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日蓮聖人、佐渡での活動

文永8(1271)年10月28日、日蓮聖人は佐渡に到着します。文永9(1272)年2月、『開目抄』を述作します。文永10(1273)年4月25日、『観心本尊抄』述作し、同年7月8日、大曼荼羅御本尊を初めて書き顕示します。<< 戻る
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龍口法難

文永8(1271)年9月12日、幕府や諸宗を批判したとして捕らえられ、腰越龍ノ口刑場にて処刑されかけますが、斬首の刑は中止され、その後、佐渡流罪となりました。<< 戻る
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一遍上人の再出家

再出家することになり最初に、文永8(1271)年信濃国(長野県長野市)の善光寺を訪れました。ここで「二河白道図にがびゃくどうず」を写して自分の本尊とされました。「二河白道」とは、唐の善導大師が“旅人・二河(火の河、水の河)・一本の白い道・阿弥陀如来・釈迦如来”を用いて、極楽往生を願う人の信心を表した比喩です。一遍上人はこの善光寺での参籠によって、人々への化益を強く決心されました。<< 戻る
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フビライ・ハンが国号を元と称す

1271年、フビライ・ハンが国号を元と称す(~1368)。<< 戻る
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覚如(宗昭)誕生

1270(文永七)年12月、覚如(宗昭)誕生。<< 戻る
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宝蔵寺-京都府京都市中京区

・宝蔵寺 浄土宗西山深草派 京都府京都市中京区裏寺町通蛸薬師上る裏寺町587弘法大師空海の創立と伝えられる。その後、文永6年(1269)如輪上人により元西壬生郷に開基される。 弘安2年(1279)に如輪上人が遷化、天正9年(1581)玉阿律師が中興再興された。 (リンク先より) << 戻る
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『仏祖統紀』

『仏祖統紀(ぶっそとうき)』は1269年に中国・南宋の僧志磐が天台宗を仏教の正統に据える立場から編纂した全54巻の仏教史書です。次の5篇19科を立てました。本紀(8巻) 釈迦仏伝(巻1-4) 西土二十四祖(巻5) 東土九祖(巻6,7) 興道下八祖(巻8)世家(2巻) 天台宗旁出諸師略伝(巻9,10)列伝(12巻) 天台宗諸師法嗣略伝(巻11-22)表(2巻) 歴代伝教表(巻23) 仏祖世繋表(巻24)志(30巻) 山家教典志(巻25) 浄土立教志(巻26-28) 諸宗立教志(巻29) 三世出興志(巻30) 世界名体志(巻31,32) 法門光顕志(巻33) 法運通塞志(巻34-48) 名文光教志...
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瑩山禅師誕生

瑩山禅師は、文永5(1268)年11月21日(陰暦では10月8日)に越前多称邑(たねむら)(現在の福井県越前市帆山)の豪族瓜生家で生まれました。道元禅師が亡くなってから15年後のことです。幼名を行生(ぎょうしょう)といいました。<< 戻る
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北条時宗が執権となり、元の使者を追い返す

1268年、北条時宗が執権となり、元の使者を追い返す。<< 戻る
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温泉寺-岐阜県下呂市

・温泉寺 臨済宗妙心寺派 岐阜県下呂市下呂町湯ノ島680「天歴年中この地の山中に、はじめて温泉湧出せり。地名を湯ガ峰という。」『飛州志』『斐太後風土記』ともに湯ガ峰の温泉湧出を天暦年間(947~957年)と記していることから、下呂温泉は一千年以上の歴史を持つといわれている。 しかし文永二年(1265年)突然温泉の湧出が止まってしまう。その翌年、毎日の飛騨川の河原に舞い降りる一羽の白鷺に村人が気付く。不思議に思った村人がその場へ行ってみると、温泉が湧いていた。空高く舞い上がった白鷺は、中根山の中腹の松に止まり、その松の下には光り輝く一体の薬師如来が鎮座していた・・・。これが下呂に伝わる白鷺伝説で...
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西光寺-静岡県磐田市

・西光寺 時宗 静岡県磐田市見付3353-1文永2年(1265)4月8日に、真言宗の傾木和尚が、この地にお堂を建立されました。その後、12年の年月を経てようやく寺院の形が整い、ご本尊の開眼を迎えるだけになりました。傾木和尚は、ご本尊の開眼を当時一切衆生の済度を志し、全国を遊行されている一遍上人にお願いしたいとお考えになりました。(リンク先より) << 戻る
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禅興寺-宮城県黒川郡

・禅興寺 臨済宗妙心寺派 宮城県黒川郡大和町吉田字長福寺1禪興寺は文永2 年(1265)松島円福寺一世法心性西(ほっしんしょうさい) 禅師によって開創され、寺号を長福寺と称しました。 現在、禪興寺周辺の地域を長福寺囲いと呼んでいますが、往時の寺号に由来するものです。(リンク先より) << 戻る
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妙高寺-新潟県小千谷市

・妙高寺 曹洞宗 新潟県小千谷市川井114妙高寺は740年余り前の鎌倉時代、1265年(文永2年)内ケ巻城主(現在の小千谷市川井内ケ巻)で新田氏の一族 田中大炊介源義房(たなかおおいのすけみなもとのよしふさ)により創建された曹洞宗の寺院です。(リンク先より) << 戻る
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称名寺-奈良県奈良市

・称名寺 西山浄土宗 奈良県奈良市菖蒲池町7称名寺は、南都興福寺の学僧であった専英、琳英の兄弟が、法相学を修めた後、弥陀本願の法に触れ念佛の教えを乞うた京都西山三鈷寺の澄忍上人と力をあわせて建立した常行念佛の道場を創始とし、その創建は、文永2年(1265・鎌倉時代)と伝えられる。当初は興福寺の北に位置していた為、興北寺とも呼ばれていたが、室町時代に現在の地に移転された。(リンク先より) << 戻る
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林光寺-茨城県水戸市

・林光寺 単立(浄土真宗東本願寺派) 茨城県水戸市酒門町35-1林光寺 茨城県水戸市 文永2年(1265年)開基(リンク先より) << 戻る
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町石が建てられる

文永二年~弘安八年(1265年~1285年)、高野山麓慈尊院から山上まで町石が建てられる。<< 戻る
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小松原法難

文永元(1264)年11月11日、念仏信仰者の地頭・東条景信(とうじょうかげのぶ)の軍勢に日蓮聖人は襲撃され、弟子一人は討ち取られ、自らも眉に三寸の疵(きず)を負わされました。<< 戻る
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大正寺-山梨県富士吉田市

・大正寺 浄土真宗本願寺派 山梨県富士吉田市新倉621当山は今を去ること約750年前(文永年間)に祖門六老僧の随一源誓上人に創設され、宗祖親鸞聖人御真筆の無碍光如来の画像を安置した草庵が当所字宮の下にありました。 文安年間(1440年代)に本願寺中興の祖の第8世蓮如上人が当地を御巡錫した際、藤原氏の末裔であった当国城山(本郡福地村字新屋の南にあり)の城主の遠山伊豆守重正が蓮如上人に帰依し法名乗欽を賜りました。(リンク先より)※文永年間 1264年から1275年<< 戻る
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妙喜寺-愛知県西尾市

・願王山妙喜寺 曹洞宗 愛知県西尾市江原町屋敷16人皇90代亀山天皇の御宇、文永元年(1264)江原城城主江原丹波守により開創され、開山は天桂膳薫大和尚である。本尊地蔵願王菩薩木座像(体内仏を治め厨子入)の像裏に『永正9年7月24日刀始』と記載され、当寺開創当時のものと推定されるが作者は不明である。(リンク先より) << 戻る
人物

親鸞聖人(しんらんしょうにん)

親鸞は、鎌倉時代前半から中期にかけて活躍した僧侶。浄土真宗の宗祖とされます。法然を師と仰ぎ「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行くことに力を注ぎました。自らが開宗する意志は無かったと考えられています。(以下、敬称を省略します。)親鸞は1173年に、現在の京都市伏見区日野、法界寺・日野誕生院付近で誕生しました。お父さんは藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、お母さんは清和源氏の流れをくむ吉光女(きっこうにょ)と伝えられています。9歳の春に、伯父の日野範綱(ひののりつな)に連れられ、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円のもとで出家・得度しました。この...
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伊豆法難

弘長元(1261)年5月12日、反感を持つ者の讒言(ざんげん)により日蓮聖人は捕らえられ、伊豆へ流罪になりました。弘長3(1263)年2月22日、伊豆流罪赦免されます。<< 戻る
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弘長寺-新潟県南魚沼市

・弘長寺 時宗 新潟県南魚沼市六日町2303弘長寺は、元々は天台宗延暦寺の末寺であり、弘長元年(1261年頃)、六日町大柳の地に金城山弘長庵として開山しました。そして、正応2年(1289年)5月(鎌倉時代後期)に時宗二祖真教上人とその弟子長真がこの地に足を止めて、天台宗の寺院から時宗の寺院へと改宗しました。この年を時宗寺院として弘長寺の開基と致します。(リンク先より) << 戻る
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松葉ヶ谷法難

文応元(1260)年7月16日、前執権で幕府最高の実力者の北条時頼に日蓮聖人は『立正安国論』を送りました。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府の間違った信仰にあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼離などの災いが起こると説かれています。同年8月27日、『立正安国論』建白の40日後、他宗の僧ら数千人により、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされましたが難を逃れました。<< 戻る
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日蓮聖人『立正安国論』を著す

文応元(1260)年5月26日、『立正安国論』を著す。1巻。日蓮が5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)に献じたもので、法華経のみが正法(しょうぼう)であり、これを信仰して国をおさめ民衆を救済すべきことを警告し、これにより政治を行わないと天災地変がおこり、外国の侵略を受けると説といている。<< 戻る
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金胎寺-富山県射水市

・金胎寺 高野山真言宗 富山県射水市戸破3315護国山金胎寺は文応元年(1260)頃、高野山大楽院信顕阿闍梨が北陸巡業の折、越中に滞在し、当地に金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置し、加茂社の神宮寺として草創されました。本堂の天井中央には、周囲に菊華紋をあしらった、墨絵の竜眼図が描かれています。この寺は北陸で一番最初に前田利家の兄である前田安勝公により西国三十三観音に習い越中一国三十三観音の十五番札所(本尊秘仏千手千眼観音菩薩像)に定められた寺でもあります。(リンク先より) << 戻る
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フビライ・ハンがモンゴル帝国第5代皇帝に即位

1260年、フビライ・ハンがモンゴル帝国第5代皇帝に即位。<< 戻る