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岡田以蔵(おかだいぞう)

江戸時代末期の土佐藩郷士。司馬遼太郎の小説名から「人斬り以蔵」の名でも知られる。諱は宜振(よしふる、読みに諸説あり)。幕末の四大人斬りの一人。武市瑞山(半平太)に師事し、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(勘七)に剣術を学ぶ。薩長他藩の同志たちと共に、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達などに、天誅と称して集団制裁を加える。1863年の八月十八日の政変後、土佐勤王党は大弾圧を受け、翌年に以蔵も捕らえられ苛烈な拷問を受ける。慶応元年(1865年)閏5月11日に打ち首、獄門となった。生誕 天保9年1月20日(1838年2月14日)命日 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)<< 戻る
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浄信院-新潟県新潟市中央区

・浄信院 浄土宗 新潟県新潟市中央区本町通14-3069①【称号】入船地蔵尊 【寺号】浄信院 【山号】紫雲山 ② 当山創建   慶応元年(1865年)③ 当山開基上人 関川貞信法尼④ 御 本 尊  入舩地蔵菩薩立像⑤ 宗  派   浄土宗(総本山_知恩院)⑥ 歴代住職❍開基 関川貞信法尼  ❍二世 関川定治上人❍三世 関川定七上人  ❍四世 関川徳秀上人❍五世 関川徳成上人  ❍六世 関川亮順上人(リンク先より)<< 戻る
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長州征伐(第二次)

1865年、幕府は、尊王攘夷論の中心であった長州藩をたおそうと2度にわたって出兵し、1度目は降伏させたが2度目は失敗に終わった。<< 戻る
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物価が上がり、各地で打ちこわしが起こる

1865年、物価が上がり、各地で打ちこわしが起こる。 << 戻る
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久坂玄瑞(くさかげんずい)

幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、諱は通武、通称は実甫、誠、義助。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典は贈正四位。生誕 1840年(天保11年)5月命日 元治元年7月19日(1864年8月20日)<< 戻る
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佐久間象山(さくましょうざん/ぞうざん)

江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。通称は修理、諱は国忠、のちに啓、字は子迪、後に子明と称した。位階は贈正四位。象山神社の祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。松代三山の一人。生誕 文化8年2月28日(1811年3月22日)命日 元治元年7月11日(1864年8月12日) 清光院仁啓守心居士<< 戻る
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禁門の変(蛤御門の戦い)による戦火に巻き込まれる

1864(元治元)年7月、禁門の変(蛤御門の戦い)による戦火のため、東本願寺両堂以下諸堂焼失。<< 戻る
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弘源寺-京都府京都市右京区

・弘源寺 臨済宗天龍寺派 京都府京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町65本堂は客殿形式で寛永年代の造営です。正面中央には本尊観世音菩薩、右側に開山である玉岫禅師木像、左側に開基である細川右京太夫持之公の位牌を祀っています。 柱に残る刀傷は、京都御所蛤御門の変(1864)に際し天龍寺に陣を構えた長州藩の軍勢が、血気に逸り試し切りなどをしたものです。(リンク先より) << 戻る
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長州征伐(第一次)

1864年、長州征伐(第一次)。<< 戻る
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下関事件

1864年、アメリカ、イギリスなど4か国の艦船が下関を砲撃、占領する。<< 戻る
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蛤御門の変

1864年、長州藩士が京都御所を襲う(蛤御門の変)。<< 戻る
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芹沢鴨(せりざわかも)

幕末の水戸藩浪士、壬生浪士の初代筆頭局長。前名は下村嗣次と推定されている。諱は光幹で、本姓は桓武平氏繁盛流大掾氏とされるが、実際は出自、出生年に諸説があり、確定されていない。生誕 天保3年(1832年)命日 文久3年9月16日(1863年10月28日)もしくは9月18日(10月30日)<< 戻る
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緒方洪庵(おがたこうあん)

江戸時代後期の武士、医師、蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖と言われる。 諱は惟章または章、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。生誕 文化7年7月14日(1810年8月13日)命日 文久3年6月10日(1863年7月25日)華陰殿法眼文粛居士<< 戻る
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清河八郎(きよかわはちろう)

江戸時代末期の庄内藩出身の志士。田中河内介と共に九州遊説をして尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ、一方で浪士組を結成し新選組・新徴組への流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。 幼名は元司、諱は正明、号は旦起、木鶏。本名は齋藤正明で、清川八郎と改名したのち、清河八郎を名乗った。生誕 文政13年10月10日(1830年11月24日)命日 文久3年4月13日(1863年5月30日)<< 戻る
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薩英戦争

1863年、生麦事件への報復として、イギリスが鹿児島湾を砲撃する。<< 戻る
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長野主膳(ながのしゅぜん)

江戸時代末期の国学者で、大老・井伊直弼の家臣。通称は初め主馬、のち主膳。諱は義言。桃之舎と号した。伊勢国飯高郡滝村(たきのむら)の住人である長野次郎祐の弟で、先祖は上州長野氏とされる。しかし、これは戸籍だけのことで出自、経歴とも25歳になるまでの一切はわかっていない。歴史に登場するのは天保10年(1839年)、滝野村の滝野次郎左衛門宅に寓居したときからである。天保12年(1841年)、次郎左衛門の妹で6歳年上の瀧女(たきめ、多紀とも)と結婚し、夫婦は京都、伊勢、美濃、尾張、三河を遊歴した。同年12月に近江国坂田郡の市場村にしばらくいたが、翌年には伊吹山麓にある志賀谷村の阿原忠之進宅に寓居する。...
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有馬新七(ありましんしち)

幕末の薩摩藩士、学者。諱は正義。位階勲等は贈従四位。真影流(直心影流)と崎門学派を学び文武両道の俊傑とうたわれた。憂国の詩文は孝明天皇の乙夜の覧に供されたとされる。生誕 文政8年11月4日(1825年12月13日)命日 文久2年4月23日(1862年5月21日)<< 戻る
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吉田東洋(よしだとうよう)

江戸時代後期の土佐藩士・参政。諱は正秋。東洋は号。後藤象二郎は義理の甥にあたる。文久2年4月8日(1862年5月6日)、帰邸途次の帯屋町にて武市半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助によって暗殺された。享年47歳。生誕 文化13年(1816年)命日 文久2年4月8日(1862年5月6日)<< 戻る
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公武合体運動

1862年、孝明天皇の妹・和宮が将軍家持と結婚し、公武合体運動がすすめられる。公武合体の動きに対して、薩摩藩と長州藩では尊王攘夷論がますます強まった。<< 戻る
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生麦事件

1862年、横浜近くの生麦村で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷。<< 戻る
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歌川国芳(うたがわくによし)

江戸時代末期の浮世絵師。画号は文政初年から万延元年にかけて一勇斎国芳といい、後に彩芳舎(文政中期)、朝桜楼(天保初年から万延元年)、雪谷、仙真とも号した。歌川を称し、狂歌の号に柳燕、隠号に一妙開程芳といった。『東都富士見三十六景』『宮本武蔵の巨鯨退治』『役者似顔絵六歌仙図』など多数。生誕 寛政9年11月15日(1798年1月1日)命日 文久元年3月5日(1861年4月14日)深修院法山信士<< 戻る
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法光寺-北海道幌泉郡

・法光寺 曹洞宗 北海道幌泉郡えりも町本町23明治10年以前の、法光寺に関する史実については、詳細の資料がないので明らかではないが、当地方の巡教は、道仙和尚によって行われたと思われる。この地方の曹洞宗は、えりも岬に説教所のようなものが文久時代(1861頃)からすでにあったといわれ、古文書でもあらわされている事もあり、当時70歳と言われる道仙和尚がその教えをえりも町一帯にひろめていたと思われる。法光寺裏の丘の歴代住職の墓地に、道仙和尚の墓碑が祀られていることも、これらを物語っている。(リンク先より) << 戻る
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清正公寺-東京都中央区

・清正公寺 日蓮宗 東京都中央区日本橋浜町2-59-2この場所は江戸時代には細川藩の下屋敷があったところで、文久元年(1861年)、細川斎護が熊本の日蓮宗本妙寺から勧請して創建しました。加藤清正を祀り、現在の堂宇は昭和34年(1959年)に再建されたものです。都営地下鉄新宿線浜町駅の上に位置する浜町公園内の一角にあります。 << 戻る
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龍澤寺-北海道札幌市北区(北海道石狩市)

・龍澤寺 曹洞宗 北海道札幌市北区新琴似町546-3・龍澤寺 曹洞宗 北海道石狩市厚田区古潭村2龍澤寺は、幕末安政の頃、記録には文久元年(西暦1861年)に函館市高龍寺第十八世住職大光海雲大和尚を勧請開山し開闢開山(初代住職)に萩原泰能師(後に古潭神社神主)を迎え、開基様(龍澤寺建立発願者)である古潭請負人平田興三右衛門様の御寄進により建立されました。(リンク先より) << 戻る
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徳川斉昭(とくがわなりあき)

江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)将軍徳川慶喜の実父である。藩政改革に成功した幕末期の名君の一人。しかし将軍継嗣争いで大老・井伊直弼との政争に敗れて永蟄居となり、そのまま死去した。生誕 寛政12年3月11日(1800年4月4日)命日 万延元年8月15日(1860年9月29日)<< 戻る
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飯田忠彦(いいだただひこ)

幕末の徳山藩出身の国学者・歴史家。諱は初め恒憲、後に持直、忠彦と改名し、出家して黙叟と名乗る。通称は要人、刑部、左馬。字は子邦。号は環山、野史氏、夷浜釣叟。『大日本野史』の著者として知られる。生誕 寛政10年12月18日(1799年1月23日)命日 万延元年5月27日(1860年7月15日)志信院黙叟理現居士<< 戻る
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井伊直弼(いいなおすけ)

井伊直弼は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。 幼名は鉄之介、後に鉄三郎。諱は直弼。生誕 文化12年10月29日(1815年11月29日)命日 安政7年3月3日(1860年3月24日)宗観院柳暁覚翁<< 戻る
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西光寺、全国で唯一の殿号で呼ばれる寺院となる

万延元年(1860)、関白九條兼実から直筆の「石田殿」の額を下賜されてから、それまでは「石田山 西光寺」としていた名称を「石田殿 西光寺」としました。寺院としては全国で唯一の殿号で呼ばれる寺院となりました。<< 戻る
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吉田松陰(よしだしょういん)

武士、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、のちの明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。父は萩藩士杉百合之助。山鹿流兵学師範であった吉田家の養子となる。藩校明倫館を経て、諸国を遊学。佐久間象山のもとで砲術と蘭学を学ぶ。安政元年(1854)海外密航を企て、下田港のアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込もうとしたが、拒絶され投獄。のち萩の野山獄に移されるが、翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となる。その間松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した...
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橋本左内(はしもとさない)

江戸時代末期の志士、思想家、越前国福井藩藩士。号は景岳、黎園。諱は綱紀。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』がある。14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、松平春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また英明の将軍の下、雄藩連合での幕藩体制を取った上で、積極的に西欧の先進技術の導入・対外貿易を行うことを構想した。またロシアとの同盟を提唱し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。安政5年(1858年)、大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まり、松平春嶽が隠居謹慎を命じられると、将軍継嗣問題に介入したことを問われて取り調べを受け、親戚の朧勘蔵の邸に幽...
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安政の大獄

1859年、安政の大獄。大老井伊直弼は、朝廷の許しを得ずに通商条約を結び、それを批判した諸大名や数多くの志士(吉田松陰・橋本左内など)をとらえて死刑や島流しにした。<< 戻る
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月照(げっしょう)

幕末期の尊皇攘夷派の僧侶。名は宗久、忍介、忍鎧、久丸。文政10年(1827年)、叔父の蔵海の伝手を頼って京都の清水寺成就院に入り、天保6年(1835年)住職となりました。しかし尊王攘夷主義に傾倒して公家たちや活動家たちと関係を持ち、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、幕府から危険人物とみなされました。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする西郷に対し止めるように諭しています。安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出して土浦藩士・大久保要や水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門らの支援の元、しばらく大坂に留ま...