満済とは、南北朝時代から室町時代中期にかけての醍醐寺の僧侶。僧としては破格の准三后を授かったことから、満済准后、法身院准后、三宝院満済としても知られます。安土桃山時代の義演准后と並んで醍醐寺中興の祖として知られます。また、具注暦の裏にその日の出来事を記録しておいた『満済准后日記』(『法身院准后記』)で、応永18年(1411年)から入滅の年までの記事があり、自筆本も伝わり(現在は醍醐寺と国立国会図書館蔵。共に、重要文化財)、当時の政治情勢が克明に記録していることから、室町時代の極めて重要な史料となっています。
父は関白二条兼基の子・良冬を始祖とする従一位・権大納言今小路基冬。母は聖護院房官法印源意の娘・白川殿。母が室町幕府3代将軍・足利義満の御台所・日野業子に仕えていた縁で足利義満の猶子(ゆうし)となります。応永2年(1395年)11月に三宝院24世門跡であった定忠が足利義満の不興を買って追放されると、12月1日に報恩院隆源のもとで得度し、同時に三宝院25世門跡・醍醐寺第74代座主となり、更に大僧都に任命される。
その際、足利義満から偏諱の授与を受けて満済と号すことになる。応永3年(1396年)9月16日には出家した足利義満に同行して延暦寺において義満と共に受戒する。足利義満の意向を背景に僧侶としての正式なスタートになる受戒よりも門跡・座主・大僧都任命が優先されたが、伝法灌頂を受けるために必要な四度加行全て規定通りに終了している。
応永19年(1412年)までに、鎌倉時代に発生した三宝院の法流分裂以降分かれていた各派の教説の習得を終え、高野山無量寿院の長覚からも教えを受けるなど、当時の僧侶の中でも群を抜く勉学と修行によって優遇を実のあるものとしました。
応永2年(1395年)から永享6年(1434年)までは醍醐寺第74代座主も務め、これ以後三宝院門跡が醍醐寺座主を兼ねるのが通例となりました。その間、東寺長者・四天王寺別当などをも兼ね、応永16年(1409年)には法務に任じられ、ついで大僧正の位に上ります。正長元年(1428年)には三宝院門跡として初めて准三后の宣旨を授かっています。
足利義満とその子4代将軍義持・6代将軍義教の信任が厚く、内政・外交などの幕政に深く関与し、黒衣の宰相の異名を取りました。特に籤引き将軍・義教を登場させたのは満済の功によるところが大きく、さしもの恐怖政治を行った義教も満済の建言には従うことが多かったといいます。幕政の中枢にありながら情勢を冷静に判断し、人情に厚い満済の態度は、同時代人から「天下の義者」(伏見宮貞成親王『看聞日記』)と賞賛されました。
『満済准后日記』は、『法身院准后記』(ほっしんいんじゅごうき)とも呼ばれ、満済自筆本の大部分が現存し、応永18年(1411年)1月及び応永20年(1413年)から応永29年(1422年)までの巻子本11軸が国立国会図書館に、応永30年(1423年)から永享7年(1435年)までの冊子本38冊が醍醐寺三宝院に所蔵されている(ともに重要文化財)他、1軸が東京大学史料編纂所に、1冊が京都大学に所蔵されています。
満済は将軍足利義持・義教の護持僧として近侍したので、初期には禳災祈祷の記事が多いですが、やがて「黒衣の宰相」と称されるがごとく、幕政の枢密にも携わるようになると、幕府内外の政治・外交の機微に関わる記述が豊富となります。また、満済は将軍と管領以下の諸大名との意思疎通の役割を果たしていたため、守護大名の複雑な動向を窺う上で格好の史料とされています。
当時の記録として貞成親王の『看聞日記』と双璧を成しますが、彼が好奇心から噂話までも書き留めたのに対し、満済のそれは情報を客観的に捉え、直接関与・見聞したことにのみに記述を限定しているため、史料としての信憑性は極めて高いといえるようです。
生誕 天授4年/永和4年7月20日(1378年8月21日)
命日 永享7年6月13日(1435年7月8日)
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