鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される。
明恵は『大唐天竺里程記』(だいとうてんじくりていき)をつくり、天竺(インド)へ渡って仏跡を巡礼しようと企画したが、春日明神の神託のため、これを断念した。明恵はまた、これに先だつ建仁2年(1202年)にもインドに渡ろうとしたが、このときは病気のため断念している。
遁世僧となった明恵は、建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開山し、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行に励み、戒律を重んじて顕密諸宗の復興に尽力した。明恵は華厳の教えと密教との統一・融合をはかり、この教えはのちに華厳密教と称された。高山寺の寺号は、『華厳経』の「日出でて先ず高山を照らす」という句によったといわれている。
40年におよぶ観行での夢想を記録した『夢記』のほか、著作は70余巻におよび、『唯心観行式』『三時三宝礼釈』『華厳仏光三昧観秘宝蔵』『華厳唯心義』『四座講式』『入解脱門義』『華厳信種義』『光明真言句義釈』などが知られる。
生誕 承安3年1月8日(1173年2月21日)
命日 寛喜4年1月19日(1232年2月11日)
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