お寺や仏教に関わる人は数多くいると思いますが、私の場合「お坊さんとして勉強してみないか」とスカウトされたのがお寺の世界に入る切っ掛けでした。一般家庭で生まれ育ち、中学生の頃、母親の知り合いのお坊さんにそう言われた訳ですが、その時は、そのお寺が何宗なのか、お寺ではどんな仕事をしてるのか、お坊さんの勉強とは何か、正直、よく分かりませんでした。
スカウトされたからと言って、嫌なら断れば良いと思うかもしれません。中学校の部活動選びの際、決めかねていたところ、友だちの勧誘に負けて過酷なラグビー部に入るという決断をしてしまった私です。しかし、そのお坊さんがラグビー部に入っているという話を母から聞き、私に興味を持ってくれた切っ掛けになったのですから、何がどうつながるかは分からないものです。
「あの人と縁がある」「縁を結ぶ」「縁を切る」などと使われる「縁」は縁起とも言います。はじめから決まっていた運命のように思うかもしれませんが、物事には必ず原因があって結果が起こるという考え方のことです。
私の場合はどういう訳か、ラグビー部に入ったことでお坊さんになりました。原因と結果です。人生は何が起こるか分かりません。現在はこのような状況だけど、これからどのように生きていきたいか、これからどうなりたいかを考え、行動すること、原因をつくること、それで結果は変わります。
過酷な部活もその世界に入って見れば、友だちとの絆も生まれ、いつの間にか体つきも変わり、続けることでやりがいを感じるようになりました。いつの頃からか、嫌なことは断れるようにもなっています。途中で「失敗したな」と思うような決断をしても、次はこうしたいという強い気持ちが生まれたら、失敗も無駄にはなりません。
歴史の教科書にはお寺の出来事が何度も出てきます。聖徳太子、奈良の大仏、最澄・空海、鎌倉新仏教、戦国時代の織田信長などによる比叡山焼き討ちなど。しかし、お坊さんが具体的にどんな仕事をしていたか、どんな勉強をしていたか、その中身は知りませんでした。
お寺の偉い人は住職と言います。字だけを見ると、住む職が仕事?管理人的な?と、思うかもしれません。実際は、お寺を守り、いつ法事やお葬式があっても直ぐに対応できるよう、住んでいなければいけないのが住職です。旅行に行っている間に緊急事態があると「住職に直ぐに帰ってくるように言ってくれ!」と檀家さんや門徒さんから弟子がお叱りを受けるという事態になります。
お寺というところには、本尊が中心にあります。本尊は旅行に行ったりはしません。お釈迦さん、阿弥陀さん、薬師さん、大日さん、観音さん、大仏さん、などなど、呼び方が違うだけなのか、特徴があるのか、意識して見なければ誰も分かりません。しかし、「○○さん」と言うように親しみをもって呼んでいます。見方によっては、遠いインドから日本の各地にその‟分身”が旅行に来た感じでしょうか。
そうしたお寺の本尊はどんな意味があるのか知っていますか?どうやら、教えを説いている姿を現しているようです。お釈迦様は2500年前に実在した歴史上の人物です。仏像が造られるようになったのは、お釈迦様が亡くなった後、数百年経ってからです。
どんな人が、どんな姿で仏教を説いていたのか、仏像があった方がイメージが湧きやすいですからね。そこのところを調べていくと、お経の世界観から仏像やお寺の内部の装飾が造られていったようです。そこでお坊さんが勉強するためであったり、信者に分かりやすく伝えるための造形が求められました。
はじめに言ったように、私は一般家庭で生まれ育ってから、お寺の世界へと後先考えずに飛び込みました。お師匠さんについて勉強し、大学で学び、インドで学び、これまで経験してきたことをどうしたものかと考えてみた時、お師匠さんは弟子である私に伝えたのですが、私には弟子がいませんし、宗派にも宗教法人にも今は属していません。
伝える方法は太古から変わりながらも、現在は本にしたり、インターネット上で公開したり、SNSを使えば距離は関係なく連絡が取れ、同じ内容を伝えるにしても、表現方法は多様化しています。それならばと、書いたり、読んだり、今できる表現に思いを託してみようと思いました。