1207年

年表

法然上人の配流

承元元(1207)年2月18日 専修念仏を停止し法然上人を土佐(実は讃岐)に、親鸞を越後に配流が決まり、安楽房遵西は六条河原で、住蓮は近江の馬淵で処刑されることに決まりました。配流の決定した上人は 還俗 (げんぞく) させられ藤井元彦という俗名が与えられました。時に門弟が上人に、「一向専修念仏を停止する旨奏上し、内々に念仏教化なされては」と申し上げたところ、上人は、「私は流刑を少しも恨んではいない。流罪によって念仏を辺ぴな地方に化導できることは、またとない結構なことである。これはまさに朝廷のご恩とうけとるべきではないか」とさとされました。「たとえ首をきられるとも、念仏のことだけは言わなければな...
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誠照寺-福井県鯖江市

・誠照寺 真宗誠照寺派 福井県鯖江市本町3-2-38上野山誠照寺(うわのさん じょうしょうじ)の起源は、承元元年(1207年)宗祖親鸞聖人越後へ配流のとき、越前上野ヶ原(うわのがはら)の豪族波多野景之の別荘にご滞在になり、弥陀本願の要法を説かれた、いわゆる、初転法輪の聖地に始まるとされています。 景之はその一族と共に聞法して、溢れる法悦に随喜し、念仏の行者となり、空然(くうねん)と称したと伝わります。この地を「車の道場」(略称 車屋)と称しています。(リンク先より)<< 戻る
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福井別院本瑞寺-福井県福井市

・福井別院本瑞寺 真宗大谷派 福井県福井市花月1-2-36越前における親鸞聖人の教えの普及は承元元年(1207)の越後御流罪、北陸路を通過される頃から始まったと考えられ、念仏の道場はそのころより創設されたと推測されています。 蓮如上人(本願寺八代)が吉崎に向かわれた際(1471)の布教を契機に、多くの寺院が蓮如の本願寺に改宗・転派あるいは創建し、末寺となりました。この北ノ庄(現在の福井市)にも教化を受けた人々によって総坊(総道場)が建てられました。それは浜町(現在の中央三丁目。足羽川沿いのうち九十九橋から桜橋)近くで、近隣の九ヶ寺で管理するようになりました。(リンク先より)<< 戻る
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本伝寺-富山県黒部市

・本伝寺 真宗大谷派 富山県黒部市沓掛113建永2年(1207)、親鸞(1173~1262)越後流罪時に荻生村金津にあった(渕上家)祖先の家に立ち寄られて、その教えを受けた祖先は、親鸞から渕上一乗坊という称号を賜って坊舎を建てたことが始まりと伝えられています。(リンク先より) << 戻る
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浄興寺-新潟県上越市

・浄興寺 真宗浄興寺派 新潟県上越市寺町2-6-45浄興寺は浄土真宗の宗祖親鸞聖人によって創設された寺院です。聖人は承元元年(1207年)念仏禁止令により越後の国、国府(上越市)に流罪となられましたが、越後滞在七年の後、妻子と共に常陸国(茨城県)へ移られ、笠間郡稲田郷(笠間市稲田町)に稲田禅坊を開かれました。(リンク先より) << 戻る
仏教を本気で学ぶ

専修念仏の停止

法然聖人の主著である『選択集』と真影(しんねい)を写すことを許され、吉水で入門後に綽空(しゃっくう)と名のられていたのを善信(ぜんしん)と改めました。そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、既存仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元元年(1207年)後鳥羽上皇によって専修念仏が停止(ちょうじ)され、法然聖人の門弟4人の死罪、法然聖人と中心的な門弟7人が流罪に処され、親鸞聖人は越後に流罪となりました。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗の立場に立ちました。<< 戻る