
01月01日


1月1日ご逝去 中陰からの忌日表
初七日忌 1月7日二七日忌 1月14日三七日忌 1月21日四七日忌 1月28日五七日忌・35日法要 2月4日六七日忌 2月11日七七日忌・満中陰・四十九日法要 2月18日百箇日忌 4月10日初七日からの七日毎の法要日は「命日前日」の曜日、百箇日は「命日翌日」の曜日と同じ曜日になるので、上記の日にちの確認と共に間違いのないよう曜日も確認してください。実際に行う法要は都合の良い曜日に繰り上げる、時間帯を調整することが多いようです。>> 年回忌法要が何年かを確認する<< 戻る

成川哲夫(なりかわてつお)
、 - )は、日本の元俳優。国際空手道連盟玄制流成道会前会長(創師)。本名同じ。別名伍代 勝也、伍代 達弘。妻は元女優で、成道会会長の成川昭子(旧姓:関口)。葬儀は東京都狛江市元和泉の泉龍寺別院で行われた。生誕 1944年4月15日命日 2010年1月1日<< 戻る

福本和也(ふくもとかずや)
大阪府大阪市出身の元パイロット、推理小説家、漫画原作者。生誕 1928年9月23日命日 1997年1月1日<< 戻る

ジョン万次郎(ジョンまんじろう)- 中浜万次郎
江戸時代末期から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した日本人である。アメリカ人からはジョン・マンという愛称でも呼ばれた。土佐国出身。帰国後は本名として 中浜 万次郎を名乗った。天保12年1月5日(1841年1月27日)早朝の宇佐浦(現・土佐市宇佐町)、14歳になっていた万次郎は、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込んだ。仲間の構成は、船頭の筆之丞(38歳。のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、筆之丞の弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく筆之丞の弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)と、もうひとりの櫓係の寅右衛門(26歳)、そして炊係の万次郎(14歳)であった...

清水次郎長(しみずのじろちょう)
幕末・明治の侠客、博徒。本名、山本 長五郎。米問屋山本次郎八の養子。養家没落に伴い、博徒となり,やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち、次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、広沢虎造の浪曲、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。 生誕 文政3年1月1日(1820年2月14日)命日 明治26年(1893年)6月12日碩量軒雄山義海居士<< 戻る

坂本乙女(さかもとおとめ)
江戸時代末期から明治時代にかけての女性。土佐藩郷士坂本八平と幸の三女。弟に坂本龍馬がいる。 本来の名は留で、「乙女」は「お留」への当て字である。「乙女」を「とめ」と読むこともある。薙刀に長け、剣術・馬術・弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた、文武両道の人物だったという。弘化3年(1846年)に母・幸が死去すると龍馬の母親代わりを務め、書道・和歌・剣術などを教えた。乙女は当時にしてはかなり男勝りな性格で、体も大きかったため龍馬に常に勝っていた。生誕 1832年2月2日(天保3年1月1日)命日 1879年(明治12年)8月31日<< 戻る

高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)
江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館に進出する。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。生誕 明和6年1月1日(1769年2月7日)命日 文政10年4月5日(1827年4月30日)高譽院至徳功阿唐貫居士<< 戻る

浅井了意(あさいりょうい)
江戸時代前期の浄土真宗の僧・仮名草子作家。父は東本願寺の末寺本照寺の住職。本名は不詳。号は松雲・瓢水子・羊岐斎。京都の出身。代表作品は「御伽婢子」(おとぎぼうこ)、「浮世物語」、「本朝女鑑」、「江戸名所記」、「東海道名所記」、「京雀」など。晩年に京都二条の本性寺の住職となり、昭儀坊了意と名乗った。生誕 命日 元禄4年1月1日(1691年1月29日)<< 戻る

最上義光(もがみよしあき)
戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、上杉景勝と戦い、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。生誕 天文15年1月1日(1546年2月1日)命日 慶長19年1月18日(1614年2月26日)光禅寺殿玉山道白大居士<< 戻る

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)
室町時代の臨済宗大徳寺派の僧侶で詩人。説話「一休さん」のモデルとしても知られます。号に狂雲子(きょううんし)、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)、国景(こっけい)があり、諱を宗純(宗順)といいます。出生地は京都で、後小松天皇あるいは足利義満の血を引くともいわれています。母親の出自は不明ですが、後小松天皇説に沿えばその官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられ、三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があり、三ツ島に母親のものと言われる墓が現存します。幼名は、後世史料によると千菊丸とされています。6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門し、周建の名前を授かり...

良忍(りょうにん)
良忍は、平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖。聖応大師。 尾張国知多郡の領主の秦道武の子。良仁とも書き、房号は光静房または光乗房。生年は延久4年説もある。比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。尾張国知多郡の富田荘(現愛知県東海市富木島町)に誕生しました。父は藤原秦氏兵曹道武、母は熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女でした。生まれつき美声の持ち主だったところから、幼名を音徳丸と名づけられました。十二歳で比叡山に登り、良賀僧都のもとで得度し、名を光乗坊良仁と与えられました。良忍...

聖徳太子(しょうとくたいし)
厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)とも呼ばれ、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。推古天皇のもと、蘇我馬子と協力して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなどして進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど大王(天皇)や王族が中心である中央集権国家体制の確立を図ったほか仏教や儒教を取り入れ神道と共に信仰し興隆に努めたと言われる。生誕 574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)命日 622年4月8日(推古天皇30年2月22日)<< 戻る

曹叡(そうえい)
三国時代の魏の第2代皇帝。生誕 建安9年(204年)もしくは建安11年(206年)命日 景初3年1月1日(239年1月22日)<< 戻る

神武天皇(じんむてんのう)
初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)。諱は彦火火出見(ひこほほでみ)、あるいは狭野(さぬ)。『日本書紀』での名は神日本磐余彦天皇。 『日本書紀』・『古事記』によれば天照大御神の五世孫であり、日向から大和国への東征を行い畝傍橿原宮に都して日本国を建国したとされる伝説上の人物。神武天皇の即位年月日は、『日本書紀』の記述に基づいて、明治期に法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。『日本書紀』においては、年月日は全て干支で記している。神武天皇の即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。生誕 庚午年1月1日命日 神武天皇76年3月11日<< ...