鎌倉時代

年表

年表

寺院センターが情報収集した寺院など仏教年表をまとめています。宗派、出来事と時代のタグで分け、投稿日を出来事に合わせていますが、月日が分からない多くの場合で「1月1日」に設定しています。飛鳥時代, 奈良時代, 平安時代, 鎌倉時代, 室町時代, 安土桃山時代, 江戸時代, 明治時代, 大正時代, 昭和時代, 平成時代, 令和時代, 曹洞宗の出来事, 浄土宗の出来事, 浄土真宗の出来事, 天台宗の出来事, 真言宗の出来事, 臨済宗の出来事, 日蓮系宗派の出来事, 諸宗派の出来事, 世界の出来事(仏教),世界の出来事(仏教以外),仏教(インド)の出来事,仏教(中国)の出来事,日本の出来事(仏教以外)...
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南北朝の対立

1336年、南北朝の対立。南朝・・・後醍醐天皇は吉野にのがれ、そこで政治を続けようとした。北朝・・・京都に入った足利尊氏は、新しい天皇をむかえた。<< 戻る
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福聚寺-神奈川県横浜市保土ヶ谷区

・福聚寺 臨済宗建長寺派 神奈川県横浜市保土ヶ谷区岩井町56建武2年(1335年)南北朝時代初期に創建されました。寛政年間までは現在の横浜市西区久保町にありましたが、隠居寺であった蓮求庵(現在の地)に移転し、(明治21年本堂落慶)現在に至っています。(リンク先より) << 戻る
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足利尊氏が挙兵

1335年、足利尊氏が挙兵。<< 戻る
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慶昌寺-岩手県北上市

・慶昌寺 曹洞宗 岩手県北上市和賀町煤孫18-208鎌倉時代後期の建武年間(1334~1336)の頃、鎌倉にある建長寺の法幢山泰嶺(ほうどうたいれい)大和尚が退院(隠居)したのち、全国を行脚しながらこの地にやってきました。泰嶺大和尚は和賀氏の本城だった二子(ふたご)城(別名・飛勢(とばせ)城を訪ねました。やがて泰嶺大和尚は流俗を嫌って、この地に留まることを決め、煤孫の長出の庄(現在地付近)に小庵を結びました。泰嶺大和尚は(法幢庵)と号して住まいしたといいます。(リンク先より) << 戻る
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正本寺-愛知県稲沢市

・正本寺 真宗大谷派 愛知県稲沢市奥田町中切前44571334年(建武元年)に天台宗の寺院として開寺された正本寺(しょうほんじ)は、室町後期に蓮如上人の教化を受け、三河松平藩の流れで浄土真宗に転派いたしました。(リンク先より) << 戻る
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報国寺-神奈川県鎌倉市

・報国寺 HOUKOKUJI 臨済宗建長寺派 神奈川県鎌倉市浄明寺533建武元年(1334年)報国寺開山(仏乗禅師)さまは、現在地に休耕庵を建てて修業なされました。また余暇を得て、詩作を楽しみとしつつ、静かな御生涯を過ごされました。そのゆかりの御堂跡に、今こんなに美しい竹が生い繁るようになったのです。何卒心静かに眺めて下さい。又この寺の開基は足利家時ですが、上杉重兼も寺の創設にかかわっています。家時から二代後の足利尊氏は室町幕府を樹立し、関東を治めるのに子息基氏を鎌倉公方に据えました。(リンク先より) << 戻る
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建武の新政

1334年、建武の新政。後醍醐天皇が、公家と武士を統一して天皇中心の政治を始める。しかし、その政治は貴族(公家)を重んじ、武士への恩賞も少なかったので、武士の間に天皇の政治への不満が高まった。<< 戻る
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日興(にっこう)

鎌倉時代の僧侶。日蓮の高弟六老僧の一人であり、白蓮阿闍梨と称する。日興門流の祖。富士大石寺の開山にして、日蓮正宗第二祖に列せられる。日興が日蓮のもとに赴いたのは、弘長元年(1261年)、日蓮が伊豆の伊東に流罪された時と伝えられる(日精『家中抄』)。日興は伊東において日蓮に給仕しただけでなく、周辺への弘教にも努力し、熱海の真言僧を折伏して日蓮の門下とした(日亨『富士日興上人詳伝』)。弘長3年(1263年)2月、日興は流罪を赦免された日蓮に従って鎌倉に入った。鎌倉での日蓮の活動拠点は松葉ヶ谷の草庵であり、日興もそこで日興より前に日蓮門下となっていた日昭・ 日朗らと共に日蓮に仕えながら日蓮の教化を受...
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大楽寺-大分県宇佐市

・大楽寺 高野山真言宗 大分県宇佐市大字南宇佐2077元弘3年(1333)、後醍醐天皇の勅願寺、宇佐神宮大宮司到津家の菩提寺として創建された。開基は宇佐八幡宮大宮司 宇佐宿祢到津公連公、開山に奈良西大寺の道密上人を招請した。翌元弘4年(1334)、建武と年号を改めた後醍醐天皇は、宇佐神宮の神威に叡感あって鎮護国家を記念され、 この時到津家の菩提寺であった大楽寺を勅願寺に定められた。(リンク先より) << 戻る
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清白寺-山梨県山梨市

・清白寺 臨済宗妙心寺派 山梨県山梨市三ケ所620清白寺は、寺蔵の「仏殿沿革調査書」(明治39年〔1906〕)によると、足利尊氏が開基し、夢窓国師(疎石)を開山として、正慶2年(1333)に創立されたと伝わる臨済宗の寺院です。(リンク先より) << 戻る
仏教を本気で学ぶ

日什上人、比叡山での修行

日什上人は15歳の時相次いで両親を亡くされ、1333年(正慶2年)19歳の時に出家して比叡山横川の慈遍僧正(吉田兼好の兄)のもとに入室・出家し、名を玄妙と改めて勉学修行を行いました。1352年(文和元年)38歳の時、比叡山学頭に抜擢され、玄妙能化(師範・教授)となった。<< 戻る
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鎌倉幕府が滅びる

1333年、鎌倉幕府が滅びる。楠正成・新田義貞・足利尊氏らが後醍醐天皇に味方。<< 戻る
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妙光寺-愛知県一宮市

・妙光寺 臨済宗妙心寺派 愛知県一宮市大字笹野字宮西1260正慶元年(1332年)義海和尚が鎌倉の円覚寺より来て、一山を開いたことが始まりです。橘康武氏が永和四年(1378年)、寺の所領として田畑を寄進しました。それにより、萬松山と号し、寺号を妙光寺としました。永正元年(1504年)に、京都妙心寺の蘭室和尚の弟子の笑溪和尚が住職となり、以降五百年に渡り臨済禅の法燈を脈々と受け継いでまいりました。(リンク先より) << 戻る
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後醍醐天皇が隠岐に流される

1332年、後醍醐天皇が隠岐に流される。<< 戻る
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普賢院-茨城県稲敷郡

・普賢院 天台宗 茨城県稲敷郡美浦村信太2164金龍山観音寺普賢院は、比叡山延暦寺を総本山と仰ぐ天台宗の寺院です。所在地は、和名抄の信太の本郷にあり、元享元年(1331年鎌倉末)7月相馬孫次郎行胤により開基され、この地の信仰を集めていました。その後、一時荒廃にありましたが、寛文7年(1667年)幸俊上人の手により中興開山された歴史の古い寺院です。(リンク先より) << 戻る
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元弘の変

1331年、元弘の変。後醍醐天皇が鎌倉幕府を討とうとしたが、失敗。<< 戻る
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法泉寺-山梨県甲府市

・法泉寺 臨済宗妙心寺派 山梨県甲府市和田町2595後醍醐天皇の元徳2(1330)年、当時甲斐国主であった武田家第七代の信武公が、夢窓国師の高弟であった月舟禅師を招いて創建しました。従って、本来ならば月舟禅師が初祖となる訳ですが、禅師は自ら二世を称して、恩師の夢窓国師を開山としました。 開山後は夢窓国師を中心とする五山派の官寺となり、室町幕府の保護を受けていたものと思われますが、応仁の乱以後幕府の勢力が衰えると共に、五山派も著しく衰微し、以後武田信玄公が甲斐国主となるまでの約200年間の当山の歴史は明らかではありません。(リンク先より)<< 戻る
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保寧寺-埼玉県加須市

・保寧寺ホームページ 臨済宗妙心寺派 埼玉県加須市日出安1286当寺は東安山と号し、本尊に釈迦如来像を奉安する。元徳2年(1330年)に玉山徳旋によって、禅寺として開山されたという。天正19年(1591年)には、時の騎西城主松平康重から田畑一町歩の寄進を受けている。これは当寺の中興開山である南雄和尚に帰依してのことで、後に歴代徳川将軍から寺領十石の御朱印を賜っている。(リンク先より) << 戻る
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恵林寺-山梨県甲州市

・恵林寺 臨済宗妙心寺派 山梨県甲州市塩山小屋敷2280元徳2年(1330)に、甲斐牧ノ庄(かいまきのしょう)の地頭職(じとうしょく:領主)をつとめていた二階堂出羽守貞藤(にかいどうでわのかみさだふじ:道号は道蘊 どううん)が、夢窓国師を招き、自邸を禅院とし創建しました。(リンク先より) << 戻る
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瑩山禅師(けいざんぜんじ)- 瑩山紹瑾(じょうきん)

瑩山紹瑾とは、一般には瑩山禅師と呼ばれる鎌倉時代の僧侶で、日本の曹洞宗教団では第四祖です。日本曹洞宗開祖の道元を高祖大師、瑩山を太祖大師と呼びます。諡号は佛慈禅師、弘徳圓明国師、常済大師。『伝光録』、『瑩山清規』などを著わしています。瑩山は、1268年11月21日(陰暦では10月8日)に越前多称邑(たねむら)(現在の福井県越前市帆山)の豪族瓜生家で生まれました。道元が亡くなってから15年後のことです。幼名を行生(ぎょうしょう)といいました。観世音菩薩を信仰する母親のもとで育てられた瑩山は、1275年、8歳の時に永平寺に入り、徹通義介禅師の下で沙弥となり修行を始めました。1280年、13歳の時に...
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高源寺-兵庫県丹波市

・高源寺 臨済宗妙心寺派 兵庫県丹波市青垣町檜倉514高源寺は、1325年(鎌倉時代)に遠渓祖雄(えんけいそゆう)禅師によって開創された、臨済宗中峰派(りんざいしゅうちゅうほうは)(幻住派(げんじゅうは)とも)の本山です。甲斐(山梨)の栖雲寺(せいうんじ)が東天目と呼ぶのに対して、高源寺は西天目(にしてんもく)と呼ばれ、丹波屈指の名刹として知られています。(リンク先より) << 戻る
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正中の変

1324年、正中の変。<< 戻る
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瑩山禅師、永光寺に退隠

正中元(1324)年8月、總持寺を峨山紹碩禅師に譲り、永光寺に退隠します。<< 戻る
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来迎寺-群馬県高崎市

・来迎寺 時宗 群馬県高崎市浜川町981時宗(開祖:智真一遍上人)、永仁5年(1297年)遊行二祖真教上人、元亨2年(1322年)幡応尚初代住職以来、代を重ねること37代約700年。在住の豪族長野氏の信仰をうけ、同一族の隆盛と共に栄え、箕輪城落城によって一端は衰微したと思えるが、江戸時代の徳川氏の厚遇と歴代遊行上人の廻国により、広く一般大衆への念仏信仰の浸透に伴い教勢が拡大したことがうかがえる。(リンク先より) << 戻る
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總持寺は官寺となり一宗の大本山となる

元亨2(1322)年、後醍醐天皇より瑩山禅師に信仰上の10種の勅問を下されました。これに対する禅師の奉答により、同年8月28日、總持寺は「曹洞出世の道場に補任」されて官寺となり、一宗の大本山たることが認められ、勅定によって曹洞宗の教団であることを、宗の内外に公称するようになりました。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

法明上人による融通念仏復興

元亨元年(1321) 11月15日夜、深江の草庵で法明上人の前に石清水八幡大士が来現して、「永らく融通念仏の法燈を伝授する器を待っていたが、あなたこそその人材である」と告げ融通念仏の口伝を授与し、その上、良鎮上人以来男山の社殿に預かっていた霊宝の全てを返還する旨を伝えます。八幡大士の神勅は同社の社人にも及び、融通念仏の霊宝の授受が茄子作(枚方市)の里で行われます。ここは八幡宮の社人と法明上人の一行とが霊宝の授受を行うために出向いて遇々出会った所であったのです。その時の両者の感激ぶりは本尊「十一尊天得如来」を傍らの松の木に掛け、その周りを念仏を唱えながら踊りだしたという故事にもよく表れています。...
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總持寺祖院-石川県輪島市

・總持寺祖院 曹洞宗 石川県輪島市門前町門前1-18-甲大本山總持寺祖院、正しくは諸嶽山總持寺と言い今から約7百年前元亨元年(1321年) 瑩山紹瑾禅師によって開創されました。翌元亨2年夏禅師に帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、總持寺を勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められました。 (リンク先より) << 戻る
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普門寺-茨城県つくば市

・普門寺 真言宗豊山派 茨城県つくば市神郡970普門寺は鎌倉時代末、元享年間(1321~1324年)、筑波山麓一帯で布教活動を続けていた乗海大和尚によって開創された真言宗豊山派の寺院であり、慈眼山三光院普門寺と号し、御本尊は平安時代末の高僧惠心僧都御作とされる阿弥陀如来(秘仏)である。(リンク先より) << 戻る
仏教を本気で学ぶ

日像上人 妙顕寺を創建

元亨元年(1321)、日像上人によって妙顕寺は創建されました。洛中における日蓮宗最初の寺院です。日像上人は追放や迫害といった数々の法難を乗り越え、粘り強い布教を続け、後醍醐天皇より法華経布教の勅旨を賜り、宗門の教線拡大の礎を築きました。<< 戻る
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瑩山禅師、諸嶽山總持寺へ

元亨元(1321)年、定賢律師の請いにより能登郡櫛比庄(現在の石川県輪島市)の諸嶽観音堂を譲り受け、寺名を諸嶽山總持寺(そうじじ)と改めました。<< 戻る
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善応寺-栃木県河内郡

・善応寺 臨済宗妙心寺派 栃木県河内郡上三川町上三川50991320年(元応2年)、上三川城主横田貞朝が、上三川城内に善應寺を建立し、菩提寺とする。1379年(康暦元年)、横田家累代の墓(町指定文化財)の宝篋印塔が作られる。(リンク先より) << 戻る