真言宗醍醐派

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神崎寺-千葉県香取郡

・大日山神崎寺 真言宗醍醐派 千葉県香取郡神崎町本宿231慶長5年、1600年関ケ原合戦の世、一人の行者が利根川を望む山に霊気を覚え、錫をとどめる。名を普賢を名乗った行者により山は開かれ、寺の歴史を刻むこととなった。江戸時代の書物の記録によると当山”大日山”は神崎三山に数えられておりました。鎮守神の山”神崎の杜”、愛宕権現の山”愛宕山”そして大日如来の山”大日山”が神崎三山とされ、神崎は古来より神仏を大切にしてきた土地であったことがうかがいしれます。(リンク先より) << 戻る
人物

満済(まんさい)- 『満済准后日記』(まんさいじゅごうにっき)

満済とは、南北朝時代から室町時代中期にかけての醍醐寺の僧侶。僧としては破格の准三后を授かったことから、満済准后、法身院准后、三宝院満済としても知られます。安土桃山時代の義演准后と並んで醍醐寺中興の祖として知られます。また、具注暦の裏にその日の出来事を記録しておいた『満済准后日記』(『法身院准后記』)で、応永18年(1411年)から入滅の年までの記事があり、自筆本も伝わり(現在は醍醐寺と国立国会図書館蔵。共に、重要文化財)、当時の政治情勢が克明に記録していることから、室町時代の極めて重要な史料となっています。父は関白二条兼基の子・良冬を始祖とする従一位・権大納言今小路基冬。母は聖護院房官法印源意...
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道仙寺-岡山県美作市

・道仙寺 真言宗醍醐派 岡山県美作市後山59岡山県下一の高峰、奈良の大峯山と並ぶ修験道の行場として知られる霊山後山。7世紀頃、修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ、役の小角)が後山に入り、修験道の道を開いたとする説が残されています。建長年間(1249~1255年)に僧徹雲法印が延命山道仙寺を建立すると、霊山後山の修験道は次第に発展していき、15世紀になると多くの山伏が修行に訪れるようになりました。(リンク先より) << 戻る
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寶龍寺-山梨県南巨摩郡

・寶龍寺 真言宗醍醐派 山梨県南巨摩郡早川町黒桂171甲斐国寺記によると、1019年6月、範晃という僧が京で雨乞いの密法修行をしたところ、3日目に雲の中から黄金の玉を持つ大龍が出現。人々が奇異に思っていると大雨が降り出し、これにより干ばつから救われました。範晃はこのときより宝龍和尚と呼ばれるようになり、その後、宝龍和尚は不動明王像を持って甲斐の国へ来たり、山家に寳龍寺を創建したと伝えられています。創建時の寺は1594年に焼失しましたが、1601年に法印良祐によって堂舎が再建され、中興開山としています。(リンク先より) << 戻る
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仲福寺-三重県津市

・仲福寺 真言宗醍醐派 三重県津市大里窪田町2302弘仁三年二月上旬に、弘法大師が天照皇大神宮へご参詣の際、当寺の林の中が金色に光っていることに気付きました。そこへ立ち寄ってみると、大木の元に八枚からなる蓮花の上に十一面の尊像が現れ、弘法大師は大光普照観世音として礼拝し、その大木に十一面観音を彫刻し当寺のご本尊として日天八王子を御勧請なされました。(リンク先より)※弘仁三年 812年 << 戻る
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海岸寺-香川県仲多度郡

・海岸寺 真言宗醍醐派 香川県仲多度郡多度津町大字西白方997空海師が唐から帰還してまもなく母の家のあった生まれ故郷のこの地へ立ち寄った大同二年、日本初真言密教をつかった病気封じの法を修し(屏風浦)海岸寺を開山したといわれています。(リンク先より)※大同二年 807年 << 戻る
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西国寺-広島県尾道市

・西国寺 真言宗醍醐派 広島県尾道市西久保町29-27西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山です。ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。時は西暦729年のこととされています。1066年に本堂炎上、行基作の本尊薬師如来も焼滅しましたが、永保元(1081)年、平安朝白河天皇の勅命により再建今に至ります。 伽藍の規模は正に西国一という意味を込め、西國寺と名付けられました。(リンク先より) << 戻る
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正法寺-滋賀県大津市

・正法寺 真言宗醍醐派 滋賀県大津市石山内畑町82・第十一番 ⇒ 西国三十三所 第十二番 岩間山 正法寺 (岩間寺) ⇒ 第十三番西国三十三所第十二番、ぼけ封じ近畿十楽 観音霊場第四番札所、びわ湖百八霊場湖西二十七古刹第二番。養老六年(722年)、加賀白山を開いた泰澄大師が元正天皇の33歳の大厄の病を法力により治した褒美として建立したことに始まる元正天皇の勅願寺院である。(リンク先より) << 戻る
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松尾寺-京都府舞鶴市

・松尾寺 真言宗醍醐派 京都府舞鶴市松尾532・第二十八番 ⇒ 西国三十三所 第二十九番 青葉山 松尾寺 ​⇒ 第三十番慶雲年中、唐の僧、威光上人が当山の二つの峰を望んで、中国に山容の似た馬耳山という霊験のある山があったことを想起された。登山したところ、果せるかな松の大樹の下に馬頭観音を感得し、草庵をを結ばれたのが、和銅元年(七〇八年)と伝えられる。(リンク先より) << 戻る
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千光寺-奈良県生駒郡

・千光寺 真言宗醍醐派 奈良県生駒郡平群町大字鳴川188修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)は、舒明天皇6年(634年)元日、出雲の国の高賀茂問賀介麿(まかげまろ)と賀茂役氏の娘の白専女(しらとうめ)の子として、大和国葛木上郡茅原の郷に生まれました。幼少期の時より山に入り、修行を積み、修験道を開かれました。後に成人し、金剛葛城山において仏道修業に励まれました。西暦660年頃、生駒明神に参拝の折にご神託により鳴川の里に入り、小さな草堂を建て、将軍木(ウルシの木)で千手観音を刻んで安置しました。その後、天武天皇が国家鎮護を願って伽藍を建立し、「千光寺」と名付け、寺領500石を下し賜われました。(...
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龍泉寺-奈良県吉野郡

・大峯山 龍泉寺 真言宗醍醐派 奈良県吉野郡天川村大字洞川494白鳳年間(645〜710)役行者(えんのぎょうじゃ)が大峯を開山し、修行していた頃、山麓の洞川に下りられ、岩場の中からこうこうと水が湧き出る泉を発見されました。役行者がその泉のほとりに八大龍王尊をお祀りし、行をしたのが龍泉寺の始まりであると伝えられています。この泉を「龍の口」と言い、この地を龍神様の住まわれる泉ということから、龍泉寺と名付けられました。(リンク先より) << 戻る
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塩船観音寺-東京都青梅市

・塩船観音寺 公式ホームページ 真言宗醍醐派 東京都青梅市塩船194当観音寺は、山号を 大悲山 と称し、寺は地名の塩船を付けて『大悲山塩船観音寺』と申しております。塩船とは、周囲の地形が小丘に囲まれ 舟の形に似ており、仏が衆生を救おうとする大きな願いの舟である『弘誓の舟』になぞらえて塩船と名づけられたのであります。大化年間(西暦645~650年)に若狭国の八百比丘尼が一寸八分の紫金の観音像を当地に安置したのが開山と伝えられ、貞観年間(859~877年)には安然和尚が十二の坊舎を建て興隆を極めたと伝えられております。(リンク先より) << 戻る