江戸時代

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光福寺-佐賀県藤津郡

・光福寺 浄土真宗本願寺派 佐賀県藤津郡太良町大字大浦甲190石上山光福寺は慶長年間(1600年頃)の創建と伝えられていますが詳細は不明です。太良町誌によると、文化10年(1813)第7世髄泉和尚の時に、竹崎の海岸に大きな木材が流れ着きました。寺ではその木材で阿弥陀如来を刻むことを思い立ち、弥一という仏師に命じて阿弥陀如来像を彫刻し、寺の本尊として永く安置するようになりました。(リンク先より) << 戻る
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間宮林蔵が樺太を探検

1808年、間宮林蔵が樺太を探検する。<< 戻る
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十返舎一九「東海道中膝栗毛」初編

1802年、十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を著す。<< 戻る
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本願寺富山別院-富山県富山市

・本願寺富山別院 浄土真宗本願寺派 富山県富山市総曲輪2-7-121800年頃 (寛政年間~天保頃)川端町に町屋を買い本山会所を設ける1884年(明治17年) 9月13日 別院昇格の許可(以後3度の火災にあうが復興する) 1945年(昭和20年) 8月1日 深夜、富山大空襲にて別院4度目の焼失1946年(昭和21年) 8月1日 仮本堂入仏法要(リンク先より)<< 戻る
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正満寺-東京都港区

・正満寺 浄土真宗本願寺派 東京都港区高輪1-27-44寛政 九年 (1798)文如上人裏書の蓮如上人御影安置。文化 五年 (1808)本願寺十九代本如上人裏書の文如上人御影一幅、親鸞聖人絵伝四幅を安置。正満寺十一世淳東代。文化 八年 (1811)一月十六日 正満寺十一世淳東、徳明寺を正満寺と改め、同二十五日築地別院中より移転。 文化 十一年 (1814)二月 正満寺移転、本山が正式認可。(リンク先より) << 戻る
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国府別院-新潟県上越市

・国府別院 浄土真宗本願寺派 新潟県上越市国府1-7-1本願寺国府別院の本堂は寛政10年(1798)に造立、 文化2年(1805)に建立され、総﨔造りの本堂にして、当時の越後地方の寺院建築としては実に稀に見る壮麗なるもので、建築費なども相当多額 のものであったと想像されます。 また、内陣の様式なども土地狭き関係から、出内陣として、余間は極端に小さくしてあります。内陣正面の同一須弥 壇上に宮殿(本尊を安置)と厨子(親鸞聖人を安置)とを設置してあるのが特徴で、内陣外陣の天人・その他の彫刻・天井絵、内陣の壁画や外陣 の極彩色等いずれも上方一流の技能が窺われ、地方寺院のものとしては他に比類なきものであ...
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本居宣長「古事記伝」

1798年、本居宣長が「古事記伝」を著す。<< 戻る
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最乗寺-神奈川県横浜市都筑区

・勝田山最乗寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県横浜市都筑区勝田町1277最乗寺の歴史は古く、今から約530年前に浄土真宗の寺院として開創されました。長きに渡り、この地でご門徒の方々と共に歩み続け、当世の住職で18代目となります。江戸時代の寛政7年(1795年)に建立された本堂は、今なお聞法の場として多くの方にお参り頂いております。(リンク先より) << 戻る
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林子平「海国兵談」

1792年、林子平が「海国兵談」を著し、罰せられる。<< 戻る
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ロシアの使節ラックスマンが根室に来る

1792年、ロシアの使節ラックスマンが根室に来る。<< 戻る
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法幢院-山梨県甲州市

・雲龍山 法幢院 曹洞宗 山梨県甲州市塩山上萩原94開創  寛政2年本寺  龍石山 永昌院開山  鐵容存州大和尚(リンク先より)※寛政2年 1790年 << 戻る
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朱子学以外の学問を禁止する(寛政異学の禁)。

1790年、朱子学以外の学問を禁止する(寛政異学の禁)。<< 戻る
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京都大火により東本願寺両堂消失

1788(天明八)年1月、京都大火により東本願寺両堂消失。<< 戻る
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松平定信が老中筆頭になる

1787年、松平定信が老中筆頭になる。寛政の改革 。<< 戻る
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無量寺-和歌山県東牟婁郡

・無量寺 臨済宗東福寺派 和歌山県東牟婁郡串本町串本833錦江山無量寺は、本土最南端の地である和歌山県東牟婁郡串本町に在る、虎関禅師の開山による臨済宗東福寺派の別格寺院です。 もともとは、現在地から少し離れた袋という小さな入り江の地区にあり、その地形故にたびたび津波の被害にあいましたが、宝永4年(1707年)10月の宝永地震による大津波で全壊・流失してしまいました。その後、流出した無量寺の再建の使命を帯びた臨済宗白隠下の禅僧、文保愚海和尚が入院(じゅいん)し、大津波より79年後の天明6年(1786)、辛苦の末、現在の位置に本堂再建の業を果たされました。(リンク先より)<< 戻る
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最上徳内が千島・樺太を探検

1786年、最上徳内が千島・樺太を探検する。<< 戻る
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天明の大飢饉

1783年、天明の大飢饉がおこる。<< 戻る
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天明寺-群馬県前橋市

・天明寺 真言宗豊山派 群馬県前橋市池端町645当寺は江戸中期の天明年間〔1781~1788〕に開創されたことにより天明寺と名づけられたと伝えられておりますが、実際には歴代住職の墓誌に「恵弁 貞享三丙寅天三月廿三日」とあります。このことから推測すると貞享三年〔1688〕には小さな庵を掬んでひっそりと仏道を歩んでいたのかもしれません。(リンク先より) << 戻る
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善應寺-青森県平川市

・善應寺 真宗大谷派 青森県平川市高木原富66安永8年(1779) 尾上村の住民、内山安右エ門氏の次男善正が弘前真教寺、黒石感随寺の許可を得て道場を開き、「善正寺」として開基 2代目住職感随寺智林和尚三男慈海(リンク先より) << 戻る
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多福寺-福岡県柳川市

・多福寺 真宗大谷派 福岡県柳川市吉富町81多福寺は、始まりは現在のみやま市山川町の竹井村という場所であったようです。そこで天台宗の寺院として存在していましたが、安永八年(1779年)に真宗に改宗したと記載があります。(リンク先より) << 戻る
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田沼父子が権力をふるう(田沼時代)

1779年、このころ田沼父子が権力をふるう(田沼時代)。<< 戻る
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耕雲寺-東京都世田谷区

・耕雲寺 曹洞宗 東京都世田谷区砧7-12-22安永5年・1776年、旗本の頭領であった水野十郎左衛門が非業の死をとげた事から、水野十郎左衛門の菩提を弔う為に、愛妾が出家をし「釣月」という法名を頂き、この耕雲寺(当時の名称は耕雲軒)を開創したものです。以前は新宿角筈に草庵をかまえていましたが昭和20年に戦禍を受け本堂伽藍を一切消失し、昭和27年に世田谷砧の地に移転しました。(リンク先より) << 戻る
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平賀源内がエレキテル(発電機)をつくる

1776年、平賀源内がエレキテル(発電機)をつくる。<< 戻る
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杉田玄白・前野良沢らが「解体新書」を著す

1774年、杉田玄白・前野良沢らが「解体新書」を著す。オランダの医学書「ターヘル=アナトミア」を翻訳。<< 戻る
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徳願寺-兵庫県神戸市西区

・徳願寺 浄土真宗本願寺派 兵庫県神戸市西区押部谷町西盛617徳願寺は、安永元年(1772年)に創建されたと伝えられている、創建240年以上の歴史ある古刹です。(リンク先より) << 戻る
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田沼意次が側用人に

1767年、田沼意次が側用人になる。<< 戻る
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常念寺-神奈川県川崎市麻生区

・常念寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県川崎市麻生区栗木203戦国時代の永禄元年に現在地に創建され、江戸時代中期に火災の為焼失し明和年間(一七六四~一七七一)に再建されたものである。江戸時代建立の寺院建築物は戦災等の為、川崎市内には数少なく当寺のように典型的な江戸時代の寺院の様式を残しているものは珍しく貴重なものと言われている。(リンク先より) << 戻る
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済法寺-広島県尾道市

・済法寺 曹洞宗 広島県尾道市栗原東1-15-6宝暦三年(1753) 広島国泰寺十一世笑堂行契和尚〔宝暦十三年(1763)八月十五日遷 化〕が広島藩より扶持を得て木ノ庄町木門田に隠居し三原宗光寺の末寺の西宝寺に住していた。宝暦六年(1756)三月十七日、宗光寺十三世眞猊行達和尚〔天明二年(1782)二月六日遷化〕より寺号を譲られ末寺を離れ、同八年(1758)に下総國葛飾郡幸手領下野村瑞光寺開山 穏之道顯和尚が笑堂行契和尚が本師となるため同寺の末寺となった。栗原村樋口屋又兵衛の寄進をうけ、同九年(1759)閏七月十三日免許を得て現在地に移転し、旧本堂を建立す。笑堂行契大和尚を開山と仰ぎ、広島藩五...
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本要寺-三重県名張市

・本要寺 真言律宗 三重県名張市さつき台1-137本要寺は、1756年(宝暦6年)浪速(現在の大阪市)の地に創建されました。第二次世界大戦にて本堂は戦災にあいましたが、本尊である愛染明王様を疎開することによって難を脱しました。その後、ご縁があって昭和60年前に前住職光明によって現在の三重県名張市に移築され、現在に至っております。(リンク先より) << 戻る
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泰聖寺-大阪府大阪市天王寺区

・泰聖寺 西山浄土宗 大阪府大阪市天王寺区下寺町2-4-10当山は、宝暦五年(1755)紹空哲山惠隆上人による創建にて以来、山城(京都府長岡京市)柳谷観音大阪霊場として信を集め、境内に湧出する「金龍水」「銀龍水」は大阪七名水のみならず「眼病にご利益あり」の評判高く、また「明治天皇御用水」の栄を授かるに至り注目を集めた。(リンク先より) << 戻る
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善光寺-新潟県新潟市中央区

・善光寺 浄土真宗本願寺派 新潟県新潟市中央区稲荷町3460善光寺の開山は宝暦4年(1754年)。現在、善光寺は浄土真宗本願寺派の寺院として存在していますが、ルーツは長野にある善光寺と深いつながりのある寺。本尊は浄土真宗の御本尊「阿弥陀如来」と長野善光寺の御本尊「一光三尊阿弥陀如来」の分身像が安置されています。<< 戻る
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東光寺-宮城県名取市

・東光寺 真言宗智山派 宮城県名取市下増田字丁地233真言宗 智山派 東光寺の敷地には宝篋印塔があり、以前、増田後島と下増田本村の境近くにあったもので、現在の東光寺境内に移設されたと言われています。塔は、高さ234cmで、塔身部に「金剛界四仏」の種子(不空成就如来、阿弥陀如来、宝生如来、阿閃如来)と、基礎部に「宝篋印陀羅尼経」の経文を四面に彫られている供養塔です。寛延4年(1751)の銘があり、江戸中期の現存する宝篋印塔としては、県内でも大型な石造物となっています。(リンク先より) << 戻る