本願寺(東本願寺)-京都府京都市下京区

仏教を学ぶ

御影堂(みえいどう)

仏教寺院において一宗の開祖・祖師や寺院の開山・開基の像や位牌を祀った堂のことを御影堂といいます。宗派によって、開山堂、祖堂、大師堂、法華堂などと呼ばれる場合があります。真言宗の御影堂などでは、伽藍の中心から外れて建てられることが多いですが、日蓮宗では本堂と並ぶことが多く、浄土宗では御影堂が本堂であり、浄土真宗・真宗では本堂である阿弥陀堂と並んで建てられることが多くあります。いずれにしても同じ宗派であっても、伽藍が整備された年代や寺院規模などにより違いがあります。御影堂であるからこの形で建てられているという見分けは、宗派を超えて見る場合は判断出来ません。ちなみに、例にあげた東本願寺の御影堂は、木...
仏教を学ぶ

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌

2011(平成二三)年3月、東日本大震災発生。宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌。「被災者支援の集い」<< 戻る
仏教を学ぶ

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌真宗本廟お待ち受け大会開催

2005(平成一七)年5月、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌真宗本廟お待ち受け大会開催。 「今、いのちがあなたを生きている」<< 戻る
仏教を学ぶ

親鸞聖人御誕生八百年・立教開宗七百五十年慶讃法要

1973(昭和四八)年4月、親鸞聖人御誕生八百年・立教開宗七百五十年慶讃法要。 「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」<< 戻る
仏教を学ぶ

宗祖七百回御遠忌法要

1961(昭和三六)年4月、宗祖七百回御遠忌法要。<< 戻る
仏教を学ぶ

蓮如上人四百五十回忌法要

1949(昭和二四)年4月、蓮如上人四百五十回忌法要。<< 戻る
仏教を学ぶ

宗祖六百五十回大遠忌法要

1911(明治四四)年4月、宗祖六百五十回大遠忌法要。<< 戻る
仏教を学ぶ

東本願寺両堂落慶

1895(明治二八)年4月、東本願寺両堂落慶。<< 戻る
仏教を学ぶ

禁門の変(蛤御門の戦い)による戦火に巻き込まれる

1864(元治元)年7月、禁門の変(蛤御門の戦い)による戦火のため、東本願寺両堂以下諸堂焼失。<< 戻る
仏教を学ぶ

京都大火により東本願寺両堂消失

1858(安政五)6月、京都大火により東本願寺両堂消失。<< 戻る
仏教を学ぶ

山内出火により東本願寺両堂消失

1823(文政六)年11月、山内出火により東本願寺両堂消失。<< 戻る
仏教を学ぶ

京都大火により東本願寺両堂消失

1788(天明八)年1月、京都大火により東本願寺両堂消失。<< 戻る
仏教を学ぶ

徳川家康、教如に京都烏丸七条の寺地を寄付(東西本願寺分立)

1602(慶長七)年2月、徳川家康、教如に京都烏丸六条の寺地を寄付(東西本願寺分立)。東西本願寺分立に至るまでの大きな分岐点としては、1591(天正十九)年、豊臣秀吉の京都市街経営計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は七条堀川の現在地を選び、ここに寺基を移すことに決められた。阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した1592(文禄(ぶんろく)元)年、上人は積年の疲労で倒れられ、50歳で往生された。長男・教如(きょうにょ)上人が跡を継がれたが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた譲状(ゆずりじょう)があったので、教如上人は隠退して裏方(うらかた)と呼ばれた。これには大坂本願寺の退去に...
仏教を学ぶ

本願寺(東本願寺)-京都府京都市下京区

・本願寺(東本願寺) 真宗大谷派 京都府京都市下京区烏丸通七条上る真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173~1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂びょうどうを建て宗祖の影像を安置したことに起源する。 慶長7年(1602)京都烏丸六条・七条間の地を徳川家康から寄進される。慶長8年(1603)上野国妙安寺みょうあんじ(現在の群馬県前橋市)から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、同年阿弥陀堂建立。慶長9年(1604)御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立した。これが当派の本山である「...