律宗

便り

淡路国分寺-兵庫県南あわじ市

・淡路国分寺 律宗 兵庫県南あわじ市八木国分331・紀伊 ⇒ 南海道 淡路 国分寺 ⇒ 阿波<< 戻る
年表

律宗として独立

明治初期には、唐招提寺を例外として他の律宗寺院は全て真言宗に所轄されましたが、1900年(明治33年)律宗として独立しました。<< 戻る
便り

壬生寺-京都府京都市中京区

・壬生寺 律宗 京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町31壬生寺は正暦2年(991)、園城寺(三井寺)の快賢僧都によって創建され、古い名を地蔵院、宝幢三昧寺、などと号した。 宗派は、南都六宗の一つである律宗に属している。 昭和37年(1962)、本堂を全焼し本尊地蔵菩薩像を含む多数の寺宝を失った。しかし新しい本尊延命地蔵菩薩立像(重要文化財)が、律宗 総本山唐招提寺から移されて、昭和45年(1970)に本堂の落慶法要が行われた。(リンク先より)<< 戻る
人物

如宝(にょほう)

奈良時代から平安時代にかけての律宗の渡来僧。 胡国(西域と考えられている)の人で、鑑真の随員として日本を訪れた。鑑真死後に唐招提寺の長老となる。754年(天平勝宝6年)2月、鑑真と共に平城京に入る。同年4月、東大寺大仏殿前で盛大な受戒の儀が行われた際、如法も受戒して正規の僧となり、僧籍は薬師寺に置かれた。生誕 不明命日 弘仁6年1月7日(815年2月19日)<< 戻る
人物

鑑真(がんじん)

鑑真とは、中国(唐)から6度の航海の末に来日し、東大寺に戒壇を開き、律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされる中国人僧侶です。揚州江陽県に生まれ、14歳で智満について得度し、18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、律宗・天台宗を学びます。鑑真は「四分律」に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされています。日本から唐に渡った留学僧・栄叡、普照は授戒できる僧10人を招請するため唐に渡り、742年、戒律の僧として高名で揚州の大明寺の住職であった鑑真のもとを訪れます。栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけますが、危険な...
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唐招提寺-奈良県奈良市

・唐招提寺 律宗 奈良県奈良市五条町13-46鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。(リンク先より) << 戻る
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鑑真が律宗を伝える

天平勝宝5年(753年)、鑑真(がんじん・688〜763年)が6度の航海の末に、唐から招来し、東大寺に戒壇を開き、聖武上皇、称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けました。後に唐招提寺を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗の一つとして今日まで続いています。日本の留学僧の願いで日本への渡航を決意しましたが、5度心みて失敗しました。そのため盲目になりましたが意志をかえず、6度めにようやく目的をはたして来日しました。鑑真が伝えたのは「四分律」によるものでしたが、平安時代の最澄や空海はこれを支持せず、空海は「十誦律」を重んじました(ただし、最澄は延暦寺に独自の戒壇を設置するが、空海は受戒につい...